罪人の吾の手垢の垢染(そ)みにけり -光世さんの受洗記念日

         窓の外をシャボン玉いくつも流れゆく十一月十三日吾が受洗記念日   

   20回目の受洗記念日だった1968年の短歌です。委ねることを覚えたあの日に与えられた不思議な平和が感じられます。
   1949(昭和24)年11月13日(日)、三浦光世さんは洗礼を受けてキリスト者となりました。
   光世さんは1941年中頓別の営林署に勤め始めてほどなく腎臓結核を発症し、北大病院で片方の腎臓を摘出する手術を受けました。それから数年後の1945年の秋には、既に旭川に一家は移動していましたが、膀胱結核が悪化し、夜五回も六回もトイレに起き、時には歩行困難を覚えるほどになってきました。尿道からゴム管を入れ直接膀胱に薬液を注入する膀胱洗浄治療などを受けますが、47年春には更に悪化し、仕事中椅子に座っていても苦痛が増すようになって、長期欠勤しなければならなくなりました。夕方、真夜中、明け方には決まったように激痛に襲われました。尿道を釘抜きで捩じ上げられるような痛みで、横になると苦痛が増すので、布団の上に正座してまどろんだり、布団をぐるぐる巻きにして立てて置いて、寄り添ってうとうとする程度でした。一晩でいいからぐっすり眠りたいというのが、その頃の何よりの願いだったと言います。48年には更に悪化し、腰痛と疝痛に見舞われるようになります。
   「こんな痛い目に遭うとは、人生も馬鹿々々しい。まあ、いずれ自分で自分を始末すればいいか」
   ひどい苦しみのなかで、光世さんはそうも言い、死ねば痛みから解放されると思っていました。そんな弟に兄の健悦さんは、
   「何を言うか。お前は愛のわからんやつだな」
   と嘆いたそうです。健悦さんは自分の大事な蔵書を売って、弟のために結核の特効薬ストレプトマイシンを闇値で手に入れようともしてくれる兄でした。しかし、その夏には、
   「光世のやつ、今年の夏は越せないだろうな」
   と、健悦さんは母シゲヨさんに言っていたそうです。
   痛みに耐えるだけだった、そんなある日、光世さんは棚にあった母の持っていた聖書を取り下ろして読み始めました。文語訳の新約聖書でした。後に光世さんはこう詠んでいます。

      苦しみに遇ひたるはよし腎一つ摘(と)られてキリストを知りて今日あり

   苦しみを知らなかったら、「今日あり」とは言えなかった。今日はなかった。苦しみを通してキリストに出会ったことは、なによりも「よし」であったのです。
   読み始めて数日後、兄健悦さんがそれを見つけて言いました。
   「おっ!光世、お前聖書を読んでいるのか。しかしそれは一人では無理だな。誰か牧師さんを呼んで来なければならんな」
   兄は聖公会旭川教会の渡辺英治師に会って、事情を話して頼んでくれました。渡辺師は喜んで来てくれ、週に一度三浦家に足を運んで聖書を解いてくださいました。健悦さんも一緒に聴きました。翌49年には、光世さんは少し体力が回復して、教会の礼拝にも出席できるようになっていました。
   1949年11月13日日曜日、朝の雪道を、健悦さんは自転車の荷台に母を乗せ、自宅から教会に向かって走りました。光世さんも健悦さんが借りてきた別の自転車に乗って、息を切らせながら追いかけました。雪の早い年で町はもう真っ白でした。その日、渡辺英治師の手によって健悦さんと光世さんは、二人一緒に洗礼を受けました。クリスマスまで待たなかったのは、寒くなると教会まで来るのが難しくなるだろうとの渡辺先生の配慮でした。光世さんは洗礼式までに既に旧約聖書は一度、新約聖書は三度通読していたと言います。

      ありがたき聖書なるかも罪人の吾の手垢の垢染(そ)みにけり

   1950年、洗礼を受けて一年経たない頃の歌です。「垢」の反復に特徴がある、ゴッホの初期の絵でも見るような気がする、深くて武骨な強いもののある歌です。綾子さんはこう書いています。

   確かに三浦は一見静かで穏やかに見えますが、実は人一倍激しさを秘めているのです。それは、自分自身へのきびしさでもあるのです。そしてそれは神の前にひざまずいている姿でもあるのです。私は彼の優しさを稀に見るものとして好ましく思いますけれど、この自分へのきびしさ、己れを打ち叩く姿に、優しさ以上に惹きつけられます。私はとても、〈……罪人の吾の手垢の垢染みにけり〉とは詠めません。 
   とにかく三浦は、激しい内面の葛藤を繰り返しながら、聖書の言葉によって曲がりなりにも自由を得てきたのだと思います。いや、大いなる救いを与えられてきたのだと思います。                   (三浦綾子『新しき鍵』)

   光世さんの信仰の歌は、同じような特徴を持っているように思います。

      誰の前にも顔を上げ得ぬ吾と知り平伏して祈りし日もありにしを
      吾が持てるすべてはキリストの賜ひしを忘れて今日も心奢りぬ
      
新約一章旧約三章日々に読む慣はしを得々と今日は告げたり
      
父にうつされし結核と呪ひ呪ひし若き日もはるけし主に生かされて
      吾のこの今日ある陰に信捨てし祖父の祈りもありしかと思うふ

  どの歌にも咀嚼されてきた時間があり、見つめられた自己があり、少しずつ確かに照らされた光り(光世さんはしばしば「光」でなく「光り」と書きました)があり、見出だされた真実があり、打ち叩かれた痛みと砕かれがあります。けれどその奥には、砕かれながら委ねることのできることを感謝している平安があるのが感じ取れます。「大いなる救い」なのでしょう。

※参考:三浦光世著『青春の傷痕』『共に歩めば』『夕風に立つ』ほか。上の写真は腎臓結核を発症した中頓別の町役場前の光世さん。下は晩秋の旭川市雨紛の農村地帯。この近くに辻口家のセットが作られ2006年のテレビドラマ『氷点』の撮影が行われました。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。