淋しくはない、キリストと話をしているから-三浦光世の父貞治

   11月28日は三浦光世さんの父貞治(ていじ)さんの命日です。1927(昭和2)年32歳でした。
   貞治さんは1895(明治28)年福島市(と思われます)に生まれ、20歳になるかならぬか(1915年ごろ)で、福島から単身渡道、北見滝上(たきのうえ)の山奥に入植して開拓を始めました。十代のとき福島県の伊達でキリスト教に出会っていたようですが、洗礼のことや教会などは不明です。日本基督教団福島伊達教会は1894年に創設されていますので、ここであった可能性は高いと思いますが、調査すべき課題です。
   入植した滝上の滝西地区は両側から山が迫ってくる山合いを渚滑川(しょこつがわ)の清流が流れ、その流れに沿った狭い土地が与えられました。それは欝蒼たる原始林でした。大木を一本一本斧や鋸で伐り倒す。一本倒れる度に空が開ける。その度に歓声を上げて次の木に立ち向かったと言います。  ※写真下は滝上の渚滑川。岸が崖になっているのが特徴。


   おそらく1917年ごろ、17歳の宍戸シゲヨさんが福島から貞治さんの元に嫁いできます。それまでは猫一匹が貞治さんの家族でした。新婚生活は笹小屋で、拝み小屋とも言われる、屋根だけを地上に置いたような住居でした。光世さんはその頃の父母を偲んでこう詠んでいます。

      新婚の冬を笹小屋に焚き火して越えしとふ開拓農たりし父母

   石ばかりの土地と急斜面の土地を一戸につき五町歩、三戸分の土地を拓いたのち、粗末ではあっても笹小屋ではない木造の家を自力で建て、自分と妻それぞれの両親一家(三浦小三郎、宍戸吉太郎)を福島から呼び寄せました。
   四キロほど更に山奥のオサツナイという所の畑も耕していたが、開拓した土地は石地で、思うような収穫が得られなかったため、土地は両親たちに託して、1919年生まれの長男健悦さんを連れ(実際には健悦さんは少し後から)親子三人で東京に出ました。21年に生まれた長女富美子さんは既に兄三浦喜代松夫婦の養子になっていました。
   東京に出た貞治さんははじめ専売公社で働きますが、月給が安く、市電の運転手に転職してからはやっと生活も少し安定しました。ところが妻シゲヨさんが第三子を妊娠中の1923(大正12)年9月、関東大震災が起きます。
   貞治さんは当時日記をつけていました。小型の二段組みの当用日記で、綾子さんと光世さんが結婚してからも光世さんが保存していて、綾子さんもそれを読んでいます。「今日も一日力一杯働いた。感謝である」と神に感謝する言葉や、震災の惨状を目撃して「……悲惨々々」と記した部分もあったようです。また妻へのいたわりの言葉も多く記されていたようです。

   ○月○日 雪 寒し
   勤めから帰る妻を、雪下駄を持って駅に迎えに行く。いつもの時間に帰らず、一時間待っても二時間待っても帰らず、家に戻ってみると、妻は既に帰宅していた。どこでどう行きちがったものか、哀れなことをした。

   普通、待ちぼうけを食った夫は妻を怒鳴りつけでもしそうなものですが、かえって妻の足が冷たかったのではないかと思いやっています。光世さんとよく似た感性と忍耐と愛を持った人だったことが分かります。
   貞治さんはシゲヨさんの妊娠が分かった時には経済的な問題から、産むべきか否か少し悩むということもあったようですが、1924(大正13)年4月4日目黒不動の近くで(※場所の詳細については土屋浩志さんによる調査論考を参照ください)、第三子次男として光世さんは無事誕生しました。この貞治さんの日記は現在行方不明のようですが、『氷点』の佐石土雄の造形(幼時関東大震災で両親を一時に喪う)などにも影響を与えていると思われます。
   ところが、市電の運転手という職業がら感染の機会が多かったのか、27(昭和2)年の初め(または前年末)貞治さんは結核に罹患発病します。貞治さんは何カ月か、東京中野の結核療養所に入りました。※写真下は東京中野の東京市療養所、もう一つ下は当時のその付近の田園風景。

   このとき貞治さんが入所したのは「東京市療養所」で、1920年5月29日、現在の東京都中野区江古田に開設された肺結核の療養所、いわゆるサナトリウムです。東京近郊の中で当地が空気も水も一番良いということでここに決まったといわれますが、当時日本では結核は死亡率が高く、現在の百倍以上もあったため、「国民病」「亡国病」と恐れられ、建設工事中に放火に遭ったり、台風で半分以上が倒壊したり、請負業者が倒産したりするなどの困難があり、完成まで3年かかりました。開設当初の病床数は500。東京市療養所は貧困で療養の途のない者を収容する所であったので、無料でした。そのため入院希望者が多く1923年度から1924年度にかけて鉄筋コンクリート造りの病舎を建設していましたが、その間に関東大震災が発生し、焼き出された患者を収容する必要から、300人収容のバラック病舎を急造しました。1926年に鉄筋コンクリート造りの病舎が完成したので、老朽化したバラックを売却して跡地を患者の避難所としました。貞治さんが入所したのはちょうどこの頃(26年末~27年前半)でした。
   同療養所の療養期間は原則3か月で、必要により6か月以内の延長が認められたとのことですから、貞治さんも3カ月で退所させられ、北海道に帰ることにしたものと考えられます。
   療養所は、三方に水田がひろがる閑静な地域の台地にあり、木々の間から富士山も見えました。裏山には美しい松林やクヌギなどの自然林があり、療養所内の空き地を利用して苗圃が作られ、ポトマック河畔の桜の返礼として米国から贈られたハナミズキなど、繁殖用原木を扱うことで有名だったそうです。

   東京市療養所は、のち国立療養所中野病院に改称されますが、主に結核患者の養生施設でした。同病院は1993年に統合・廃止され、その跡地の一部が豊富な既存樹林を生かし、江古田の森公園(えごたのもりこうえん)として整備されました。
   詩人の立原道造は、1938年12月に東京市療養所に入院し、翌年3月3月29日、24歳で亡くなっています。立原に慕われた室生犀星は、津村信夫と連れだって立原を見舞いに療養所を訪れました。室生は中野駅から江古田の療養所まで雪を踏んで歩いて行きました。病床の立原は「センセイ、僕こんなになっちゃいましたよ、ほら、これを見てください」と言って、布団のなかから手を出して見せました。痩せ細った手を見た室生と津村は、立原の命が助からないと悟りますが、室生が「手が生きている間は(詩を)書けるよ」と言うと、立原は嬉しそうに笑って手をしまいました。ほかに、東京大学法学部教授の丸山眞男も肺結核のため1951年に療養所に入院し手術を受け、その後も晩年に至るまで入退院を繰り返しました。

   中野の療養所を退院した貞治さんは、一家で北海道北見滝上村に戻ります。死ぬのであれば自分で開拓した土地、両親のいる土地でと決心したのだろうと光世さんは推測しています。一家ははじめ貞治さんの両親の家に、それから以前住んでいた自分たちの家に移りました。
   貞治さんの結核は進行が早かったらしく、帰郷して間もなくは東京から持って帰った道具でチューリップの油絵を描いたりしていましたが、じきにそれもできなくなってゆきました。まだ乳飲み子だった誠子さんは妻シゲヨさんのお母さんが守りをしてくれていたのでしょう、シゲヨさんは一日働いて夕方農作業から帰って来ました。シゲヨさんが、
   「一人で淋しかったでしょう」
   と声をかけると、貞治さんは、
   「いや淋しくはない。キリストと話をしているから」
   と答えたといいます。光世さんはこの「キリストと話をしている」という言葉に、単なる祈りよりも深い意味を感じると書いています。
   1927年11月28日(月曜日)、貞治さん逝去。32歳でした。妻シゲヨさんはまだ27歳でした。
   貞治さんの遺体は寝棺でなく座棺に入れられました。幼い光世さんは、
   「見せてちょうだい。見せてちょうだい」
   と母にせがみました。母は棺桶の蓋を取って光世さんを抱き上げて、父の顔を見せてくれました。その安らかな父の死に顔を、光世さんは忘れませんでした。光世さんの歌。

  吾を抱き上げ柩の父を見せ給ひし若き日の母を思ふ今日しも

       ※写真上は滝上、父の死後に預けられた宍戸家のあった辺りを指さす光世さん。

   渚滑川の崖の藪に村人が棺桶を運び、積み上げた薪の上に載せて燃やしました。骨上げは翌日でした。11月末なのに雨も雪も降らずに済んだようで、光世さんは母に背負われて骨拾いも見ました。光世さんの歌。

  母の背に幼な吾が見き野天にて焼かれし父の骨拾ふ様

   火葬の跡地には長い年月、玉石が四、五個置かれてありました。何十年も経ってから、その玉石を見たと光世さんは書いています。光世さんの歌。

  石四五個置きしのみなる父の墓渓の響きの絶えぬ崖の辺

   貞治さんの死後、五十年経った頃、小さな木の柱が立てられたそうです。

      幼吾ら三人を置きわが母を置き昭和二年父逝けり三十二才にて

   三歳で父を喪った光世さんが、長い時間を経て大人になり、父貞治さんのこころを思って詠んだ歌です。父の胸の奥の苦しみの寄り添い、その最期の祈りに思いめぐらした光世さんは、やがて父の祈りがいつも先回りして、人生の多くの瞬間に守り導いてくれていたことに気づいてもいるのでしょう。
   兄健悦さんは2002年に亡くなりましたが、遺言によるのでしょうか、生れ故郷である滝上の三浦家のあった場所に眠っています。※写真下は滝上、2007年6月。木標の文字は光世さんの揮毫。
        参考:三浦光世『青春の傷痕』、『夕風に立つ』、三浦綾子『新しき鍵』、Wikipediaほか

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。