2020年8月29日(土) / 最終更新日時 : 2020年8月29日(土) 森下 辰衛 創作 どら猫と一寸法師 私のあだ名はどら猫だった。これが女の子につけるあだなかよ?と思うが、いちばん私を知っている親がつけたのだから仕方ない。ぐるるる。 中学二年生の秋だった。どんな事情だったか忘れたけど、ある日曜日、私たち女の子四人と男の子四人のグループで映画を見に行った。その中に彼もいた。
2020年8月25日(火) / 最終更新日時 : 2020年8月26日(水) 森下 辰衛 文学散歩 いたましくも尊いこと ー 文珠分教場の子どもたちとの別れ 1941(昭和16)年8月25日、歌市内の神威小学校の文珠分教場の二学期の始業式に合わせて離任式がありました。秋から堀田綾子先生は旭川の啓明小学校に移ることになったからです。16歳11か月から19歳4か月までの約2年半、人生で初めて家族と離れて住んだ地神威を、綾子さんは去りました。
2020年8月24日(月) / 最終更新日時 : 2020年8月25日(火) 森下 辰衛 文学散歩 オホーツク土産 釧網線(釧路―網走)の斜里駅は正確には知床斜里駅。1925年(大正14)年、国鉄の斜里駅として開業し、1998年に知床斜里駅に改称しました。駅前には巨大なオジロワシ像が立っています。でも、大事なのはその向こう左に見える斜里セントラルホテル。ここには以前(少なくとも2006年には)斜里館という旅館が立っていました。三浦綾子の一番最初の小説「暗き旅路に迷いしを」で「S館」と記されている宿です。
2020年8月24日(月) / 最終更新日時 : 2020年8月26日(水) 森下 辰衛 三浦光世 8月24日は握手記念日 8月24日は1955(昭和30)年、光世さんが綾子さんを見舞った三回目の日。この日光世さんは「神よ、わたしの命を堀田さんに上げてもよいですから、どうか堀田さんを癒してください」と祈りました。なぜこんな祈りができたのでしょう?前回、2回目の訪問は7月3日でした。そのとき綾子さんは一冊のアルバムを見せてくれました。
2020年8月24日(月) / 最終更新日時 : 2020年8月24日(月) 森下 辰衛 シモーヌ・ヴェイユ シモーヌ・ヴェイユと三浦綾子 今日8月24日はフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユが亡くなった日です。1943年、第二次世界大戦中に英国アシュフォードで、彼女は34歳で客死しました。「戦後フランスの精神的再建への青写真」の作成に最期の力を注ぎながらも、彼女にとってナチスドイツに蹂躙され傷つけられた祖国の苦しみを感じつつ離れてあることは、強い痛みでもありました。
2020年8月22日(土) / 最終更新日時 : 2020年8月23日(日) 森下 辰衛 文学散歩 手を伸ばせば天井に届きたりき ー 三浦光世の短歌➅ 手を伸ばせば天井に届きたりきひと間なりき吾等がはじめて住みし家なりき 光世さんは三歳の時に父親を結核で亡くしています。父を殺した菌は光世少年の中にも侵入し十七歳のときには腎臓結核で腎臓を片 […]
2020年8月21日(金) / 最終更新日時 : 2020年10月10日(土) 森下 辰衛 おたより おたより ⑤ 最近届いたおたよりからいくつかを紹介させていただきます。メールの方、SNSの方、葉書の方、お手紙の方、四人とも違う方法でご感想をくださいました。ありがとうございました。励まされます。
2020年8月19日(水) / 最終更新日時 : 2020年8月19日(水) 森下 辰衛 プライベート 野の花を見よ - 受洗記念日に 私は1990年8月19日に山口市のインマヌエル山口教会という所で洗礼を受けてキリスト者になりました。今日は30年の記念の日です。30年前のその日、「私はあなたを信頼します」と告白したのです。でも、今年は読書会や講演会、様々なセミナーや教会が主催する特別集会などが次々キャンセルになり、自分の労働で得る収入が激減。時々、ちらっと不安になります。
2020年8月19日(水) / 最終更新日時 : 2020年8月19日(水) 森下 辰衛 三浦綾子読書会 「マッテイルコトハ、ジンセイノタノシミ」― 文学館読書会再開 昨日8月18日13時半から約2時間、三浦綾子記念文学館での読書会を再開しました。2月以来半年ぶりの、まさに“待ちに待った”例会になりました。課題は『天北原野』上巻「藤八拳」の章の前半25ページほど。いつもの半分ほどの7人の参加者でしたが、全員マスクをして1ページずつ輪読し、10分ほど置いて、のち語り合いました。
2020年8月16日(日) / 最終更新日時 : 2020年8月16日(日) 森下 辰衛 西村久蔵 岡藤丑彦 ― 西村久蔵の友 翌年の秋、突然O君は私の駐屯していた張家口をはるばる尋ねて来た。そして身を北京の朝陽門外の聖者と言われていた清水安三先生宅に置いた。彼の北支を訪れたのは長い長い真剣な祈りの結果、主のお答を得てのことで、その主因は「西村は軍隊に籍のあったばかりに、殺戮の戦場に立たねばならぬ。私はその罪の償いとして中華の人に奉仕せねばならぬ」という信仰からの決断であった。病後の身で妻子三人を残し、汽車賃百円だけ持っただけで主の御旨を堅く信じて戦乱の北支に来たのであった。