一番大事にされなければならないのは、弱い人です。-三浦光世の母シゲヨ

   1978年11月23日三浦光世さんの母繁代(シゲヨ)さんが亡くなりました。死因は心臓喘息、78歳でした。
    光世さんは『青春の傷痕』に、両親の結婚の時期は正確には分からないと書いていますが、おそらく1917年ごろ、シゲヨさんが福島(富岡町かと思われます)の宍戸家から北海道北見滝上の三浦貞治さんに嫁いだときはほぼ17歳。貞治さんは数年前に福島から単身入植して開拓していました。新婚生活は笹小屋で、拝み小屋とも言われる屋根だけを地上に置いたような住居でした。入口は板戸もなく莚を下げているだけ。囲炉裏火で暖を取り、煮炊きするので、薪をくべれば火の粉が上がって天井の笹に燃えつく。そのたびに傍らの水を柄杓で汲み、その水を投げ上げて火を消すという、現在では想像を絶するような生活でした。それから二人して三戸分の土地を拓いたのち、それぞれの両親一家を福島から呼び寄せました。しかし子ども二人を抱えて石ばかりの土地で、思うような収穫が得られなかったため、その土地を両親たちに託して東京に出ました。夫は専売公社、市電の運転手などで働き、1923年には関東大震災も体験。1924(大正13)年、東京目黒でシゲヨさんは第三子次男光世さんを産みました。ところが、1927年貞治さんが結核を発病したため、一家は北海道北見滝上村に戻ります。同年11月28日に夫貞治さんが32歳で逝去。渚滑川の岸の藪で十年一緒に生きた夫を火葬にしたとき、シゲヨさんはまだ27歳でした。
   シゲヨさんは、自分の父宍戸吉太郎(福島で洗礼を受けていた)の家に光世さんを、長男健悦さんと次女誠子さんを夫の父三浦小三郎に預け(長女富美子は先に貞治の兄三浦喜代松の養子となっていた)、髪結い(美容師)の修行に札幌に出ました。シゲヨさんはそれから約10年子どもたちと離れて過ごすことになりました。札幌、小樽、帯広、大阪などを転々とするも、遂に髪結いの免許を得ることはできませんでしたが、出会った女性宣教師により、キリスト教の信仰を持つことになりました。1937年、シゲヨさんの父宍戸吉太郎さんが亡くなったこともあり、小頓別で働いていた長男健悦さんの所に帰ってきて、10年ぶりに子どもたちと一緒に(末娘誠子さんは少し後)生活をはじめました。その後1943年、健悦さんの仕事の事情に従って旭川へ移り、膀胱結核で苦しむ病弱な光世さんの看病をしました。1959年光世が堀田綾子と結婚したときは59歳でした。
   綾子さんは『明日をうたう』にこう書いています。

 三浦の母は、私にとってかけがえのない人だった。信仰厚く、聖書をよく読んでいる母の口から出る言葉は、いつも私を励まし慰めてくれた。ある時母は言った。
   「綾子さん、一家で一番大事にされなければならない人は、弱い人です。綾子さんは体が弱いのですから、一番大事にされるのは当然です。遠慮しないで、のんきに構えていてください」
 結婚するまで、十三年間療養をつづけた私への言葉です。この言葉がどれほど私を力づけてくれたことか。これが、姑から嫁への言葉であろうか。その時の感動は実に深いものがあった。
   吾が足を揉みつつ母の言ひ給ふ「一生を弱い人たちに仕へて来ました」
   三浦はこんな歌を詠んでいる。その夫、すなわち三浦の父に三十二歳で死なれた母の苦労は大きかった。(略)
   三浦の母の病床を囲んで、父の五十年忌の記念会をしたのはその(※シゲヨさんが亡くなる年の)前年であったろうか。三浦はその時も母を詠んだ。
    病み臥せる母を囲みて狭き部屋父逝きて五十年の忌を営めり
    五十年前逝きし父の好みし讃美歌とふ歌へば母のまなじり滲む

   後者の歌は音数を多く使って説明をしている上の句に対して、下の句にはその長い労苦の人生から搾り出されたかのような母の涙が鮮やかに描かれています。そして、僅か十年の結婚生活を共にしていたときには本当には分かっていなかった夫の信仰を、その後に夫を喪い子どもからも離され一人にされたなかで自分にも与えられた信仰の歩みのなかで、後から知っていったのでしょう。そして五十年、妻は夫が愛した讃美歌を忘れませんでした。それをまた子どもたちが、それぞれの弱ささえ用られて与えられた信仰をもって、歌ってくれるのを聴きながら妻は、夫が畳もない開拓の家で一人、最期の病床で祈っていた祈りが、この日にも届いていることを知らされたかも知れません。
   光世さんはこのほか、母シゲヨさんが亡くなったとき、以下のような歌を詠んでいます。

      その郷里福島ゆ来し柿あまた吊し干すへ(辺)に母逝き給ふ
      体弱き吾の額に幾十度当てし御手かも遂に冷し
      少年吾に母の教えし讃美歌なり母の柩を前に歌はる
      幼な吾を背に父の骨拾ひまししその母の骨今し拾ふも

   どれも母を詠んだ味わい深い歌ですが、二番目の歌では、腎臓結核、膀胱結核で苦しんだ時代を含め、光世さんの額に当ててくれ続けた母の手を「御手」と詠んでいます。子どもにとってそれがどれほど温かくうれしくて尊くて、神さまの手のようなものであるかが感じられますが、それと共に、夫を奪った結核が今度は息子をも奪うかも知れないと恐れる母の必死さも、その手にはあったことを読み取るべきなのかも知れません。いずれにせよ最後の「遂に冷し」は逆に、その手がいかに生涯にわたって誰かを“温め続けた手”であったかということを語っているのです。
   四番目の歌が語っているのは、二十七歳で四人の子どもと共に遺され、夫の骨を拾わなければならなかった母の、どれほどの悲しみと不安を背負っていたか知れないその背中に、自分が背負われていたこと。そしてその母がそれからの五十年も「弱い人たちに仕へて」、弱い人たちを背負って生きたこと。そして、その背中を支えていた〈骨〉を今日は、遺産として感謝として学びとして拾わねばならないこと、を思い巡らしている光世さんなのでしょう。

   この年1978年は、綾子さんの実母堀田キサさんと義母シゲヨさんと、母二人を見送った年でした。綾子さんは、この数年後には小林多喜二の母セキ物語『母』を構想準備し始めることになります。

   参考:三浦光世『青春の傷痕』、『夕風に立つ』、三浦綾子『明日をうたう』ほか

 ※上の写真は1941年光世さんが腎臓摘出手術を受けたときのもの、左端がシゲヨさん。下は旧三浦邸の庭木の紅葉。兄健悦さんが長く手入れをしていました。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。