兄水野源三にもらったもの-林久子『悲しみよありがとう』
林久子著『悲しみよありがとう――まばたきの詩人 兄・水野源三の贈り物』紹介
日本キリスト教団出版局2020年10月15日刊 A5版変型80ページ 1200円(本体価格)
堀田綾子の奇跡が、前川正のいのちがけの愛によって始まり、三浦光世に引き継がれていったように、水野源三という奇跡も、宮尾隆邦牧師が弱い脚で水野家を訪れたときから始まり、高橋三郎、榎本保郎という器によって成長結実してゆきました。でも、源三さんの奇跡の一番の働き手は、坂城という美しくも平凡な地方の町と水野家という普通の家庭、そして特にこの家の女性たちでした。源三さんの詩に登場する水野家の女性たちは、母、義妹、二人の姪、二人の妹です。
この本は、上の妹さんで、小諸市在住の林久子さんによる思い出の記ですが、久子さん自身が「まばたきで作品を書く兄は世の中の誰よりも自慢の兄でした」、詩のノートを読んだとき「兄の温かさで心の氷がとけていきました」と書いているように、父、弟、兄も含めた家族が、源三さんを中心に、一般にはまだ身内の障害者を隠したがるような時代だった戦後の数十年を奇跡のように明るく生きた、水野家の物語でもあります。
やむ母の腰さすりたし雪の夜
この句は、末期の子宮癌で痛み苦しむ母うめじさんの近くに寝ていた夜の心を詠んでいます。動けない源三さんの決して届かない母までの距離と、源三さんを置いて逝かねばならない母の心。それは母子入れ替わったイエスとマリアのようにも見えますが、家族はこの二人を、共に痛みながら限りなく慈しみ、温かく見守っていたのでした。久子さんはこの部屋のことをこう証言しています。
兄と母のいる部屋はストーブの暖かさだけでなく、みんなの優しさが集まった暖かい部屋でした。そして静かに静かに祈りの中、時間が流れていきました。
世間ではよく「病人のいる家は暗い」と言われます。でもこの部屋には、こんな暖かさが満ちていました。この部屋で養われた姪たちは、外で季節の兆しを見つけてはいち早く源三さんの部屋に運ぶようになりました。義妹は、母のように源三さんの好きな小豆を煮て、一語もこぼさないように詩を筆記しました。このような家族があったことだけで奇跡ですが、それは家族から周りに広がって、この源三さんが坂城の「町の宝」と言われるようになり、小学校では源三さんの詩が歌われました。
この本に書かれた源三さんの日常生活、詩の背景、ノートと詩集ができた経緯。それらの証言が非常に貴重で衝撃的なのは勿論ですが、最後に語られるのは、著者久子さんが最愛の息子さんを喪うという体験を通して兄の信仰に呼び戻されていく道です。
久子さんが結婚するとき源三さんが書いた詩があります。
嫁ぎ行く妹へ
主イエスが与えて下さる
朽ちない真の幸せをもとめてくれるように
思いがけない はげしい嵐に出会っても
それをたえしのび進み行く
勇気を持ってくれるように
あつき祈りをこめ
聖書と讃美歌集の二冊を
嫁ぎ行く妹へ
この本は、この兄の祈りがどう応えられていったかを、妹が証言し天国の兄に向けて語っている本です。兄の贈り物が何だったのか、胸の一番奥で、最後には誰よりも分かっている妹がいます。それは、源三さんの詩を読む私たちの眼を上に向けて開いてくれるものでもあります。
私は久子さんにはまだお目にかかったことがありませんが、流石は源三さんの妹、素晴らしい書き手です。写真と詩(詩集未収録のものもあります)もついて、小さな、でも奇跡のようにきれいな本、天国が見える“本当にきれいな本”になりました。この本を編集して作ったのは日本キリスト教団出版局の伊東正道さんです。長野県出身の伊東さんが出版局での最後の仕事として選んで心をこめて準備なさったものです。伊東さんとは坂城で出会い、『水野源三精選詩集』で一緒にお仕事させていただきました。本当に良いものを世に出してくださって、感謝しています。
※この文章は数日前に出ました「信徒の友」2020年12月号に書きました紹介文とほぼ同じです。下の写真は坂城の柿の木。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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