あなたの微笑みの意味-三浦光世の短歌⑦

         着ぶくれて吾が前を行く姿だにしみじみ愛し吾が妻なれば

   もう3年近く前になりましたが、2018年の元日は数日前に思いついて旭川市神居伊の沢の上にある観音台の三浦夫妻の墓参りに行きました。行ってから当然のことに気づき、まだまだ自分は本州の人間だと思わされたのですが、北海道では冬は誰も墓参りはしないのです。一メートル以上の積雪で墓石の殆どが頭だけ残して雪の下になり、膝上まである雪を“こいで”行かなければ辿りつけません。相当深い吹き溜まりがありそうな所も見えて、遭難の不安も抱きながら、雪の上に残っているキツネの足跡を頼るようにして一歩、一歩と近づきました。

   夫妻のお墓は最上部の右端だけがちょっぴり見える状態で、ほとんどスッポリ雪に埋もれていました。夏には到底できませんが、墓石の最上部に腰かけて、少しだけ石の見えていた右の上の所を手で掘りました。すると、そこから光世さんの短歌「着ぶくれて吾が前を行く姿だにしみじみ愛し吾が妻なれば」が出てきました。墓石に彫りこんであるのです。雪の下なのでその日は掘り出しませんでしたが、左側には綾子さんが光世さんを詠んだ歌「病む吾の手を握りつつ眠る夫(つま)眠れる顔も優しと想ふ」が彫られています。
   私はそれから、そこに座り込んで、しばらく思い巡らしました。光世さんがどんなに綾子さんを愛しておられたか、何を大事にしておられたか、光世さんがどんな心で綾子さんとの四十年余りの物語を語っておられたか。それをお前は忘れかけてはいないか?さまざまな事実は情報として憶えてはいても、そのこころは雪に埋もれさせてはいないか?と問われました。

   「愛し」は「かなし」と読みます。でも、これは着ぶくれていても気にしない、このみっともない女が私の妻だなんて情けなくて悲しいと言っているのではありません。しみじみと愛(いと)しい、と言っているのです。「姿だに」とあるのは、それ以外の姿もすべて愛しいということです。「年下の吾に叱られおろおろと夜更けものさがすあはれ吾が妻」(1965)という歌にあるように、片付けが下手で夜中におろおろと探し物をする姿だって愛しいのです。
   この「着ぶくれて」の歌と同じ1961年にはこんな短歌も詠んでいます。

      むくみ帯びてみにくく見ゆる時のありみにくき時はいよよ愛しも

   もしかしたら「こんなの歌にするの、やめて頂戴よ!私だって女なのよ」と罵られるかも知れないような、こんなものも愛の歌になるのです。綾子さんがヘルペスになって目が鶏卵大に腫れて顔の半分がただれたときも、「痛みにじっと耐えている綾子の顔は美しいよ」と言った光世さん。美的なセンスがおかしいのではありません。ご存知の通りのハイセンスでお洒落な人でした。絵だって上手に描ける人だったのです。こんな題材が歌になるのは、「みにくき時はいよよ愛しも」という気持ち、殊に「いよよ愛しも」という心があるからです。

   日本語の「かなし」が持っている二つの意味。「かなしさ」と「いとしさ」、悲しみと愛、それらは随分離れているようで、胸の奥の痛みのような、絞めつけられる苦しさのような感じでつながっています。あるいはひとつものの二つの面なのかも知れません。それを無意識的にも知っている日本語と日本人の深くてしなやかな力を感じます。北森嘉蔵が“神の痛み”の神学を見出だしたのも、これに近い日本語の力が基盤にあるからかも知れません。
   妻を「かなし」と詠む歌は他にもいくつもあります。

      知恵遅き童女の如く写りゐる写真にて妻のあらたにかなし(1971)
      ひと間の家に水道引き得しを喜びしかの日も今も愛し吾が妻(1972)

  言葉には「かなし」は出て来なくても、他の多くの歌に、同じ眼差しがあります。

      万年筆をすぐ書き減らす妻の文字憐れひたすらなり稚拙なり(1962)
      四十のわたしに口づけしてくれる可愛想なあなたと妻が言ひたり(1962)
      吹きさらすプラットホームに寄り添ひて冷えし吾が耳に手を当てくれつ(1963)
      何とも言へぬうれしさうな顔をせり吊橋を並び行くだけなのに(1965)

   これらの歌にはいじらしく愛しく、「かなし」と見る眼差しと共に、温かいユーモアが流れています。このほんわかしたユーモアの感じは、前川正が綾子さんの顔にクリームを塗ってやりながら「美人になあれ、美人になあれ」と呪文をかけていた場面を思い出させます。ユーモアを生むのは、愛の平安です。白い蛾を慈しみ、生きよと言った日と同じ、この人を愛するという仕事を与えられた充実感と喜び、そして平安があるのです。それはあの『道ありき』に書かれた物語を辿って、神から与えられた吾が妻だからです。確信があるから、柔軟でいい。型破りでもいい。妻は三歩下がって歩かなければならないなどということはない。綾子さんが前を歩き、光世さんは後ろから歩く。どうかしたら、後ろから傘を差しかけてやり、背中を支えてやりして。いつも微笑みながら。

   今日10月30日は、光世さんの7回目の召天記念日です。光世さんは、私たちに、微笑みというものの意味と力を教えてくれた人でした。あの微笑みの優しさと温かさを、私たちは忘れることが出来ません。あれは決して営業スマイルではありません。あの微笑みを生み出していたのは、その奥にある「しみじみ愛し」と見る心であり、光世さんは綾子さんだけでなく、私たちをも神さまが出会わせてくださった「しみじみ愛し」い存在として見ていてくださったのです。

 

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。