祖父逝きし後の幾夜を平仮名を ― 三浦光世の短歌 ②

      祖父逝きし後の幾夜を平仮名をたどりつつ聖書読みゐし祖母よ

   父貞治さんが逝き母シゲヨさんが髪結い修行に出て、光世さんは母方の祖父宍戸吉太郎さんの家に預けられました。祖母モトさんは吉太郎さんの後添いでしたが、無類に優しい人で、血のつながらない子どもたち(光世さんの母の弟妹たち)も「実の母より優しかった」と言っていたほどだったようです。1937(昭和12)年、優しかったクリスチャンの夫が死に、葬儀も終わって、静かになった夜だったのでしょうか。彼女が思い出すのは、いつも聖書を朗読して聞かせてくれた夫でした。光世さんの祖父吉太郎さんは福島にいた二十歳のころに洗礼を受けていました。小学校を出ただけでしたが漢文の素養もあり、旧約聖書のダニエルの話など子どもにも良く分かるようにドラマチックに話して聞かせてくれたと光世さんは憶えています。光世さんの祖父ですから、きっと物語を生き生きと演じるように語ってくれたのでしょう。光世さんはこの家のことを「吾を引き取り育てし貧しき農の家聖書ありき聖画ありき聖歌がありき」とも詠っています。光世さんが後に『少年少女の聖書物語』を書いたのもこの祖父の影響が大きかったようです。妻にも聖書の言葉の意味や物語の心のところを優しく話して教えてくれたに違いありません。
   夫の死後、一番大きな頼りを喪った祖母でした。だからこそ、夜毎に聖書を取り出して、ページを開いていた夫の手と夫の声を思い出そうとするのです。そして指でなぞるようにして、夫との人生をたどり、夫の心をもう一度読み取ろうとするのです。でも、貧しい家に育って長くは学校に通えなかったのでしょうか、祖母は漢字が読めなかったようです。だから平仮名だけをたどるしかないのです。それでも聖書を読もうとする祖母のこころは、夫の信仰と心を受け継いで、引き継いで、それに支えられて生きていこうとするこころであり、神さまのこころを読み取ろうとするこころでもあったのでしょう。「幾夜を」は幾つかの夜をという意味にも勿論読めますが、あの祖母はそんな風に幾夜を過ごしたのだろう?それは数えられないほどだったに違いない、という意味に読む方が正しいでしょう。
   祖父がなくなった年の末には、光世さんは大阪から帰って来た母に引き取られて、既に小頓別で働いていた兄の所に行って一緒に住むことになり、祖母と離れました。それから1960(昭和35)年に祖母が亡くなるまで二十年余り、もう会うことはなかったようです。それでも、この祖母を長い何月、まさに何千という夜を過ごしつつ憶えていて、こうして歌にした光世さんもまた、人の生とこころをたどり読みとろうとする優しいこころの人でした。のちに小林多喜二の母セキのことを書いてほしいと綾子さんに頼んだ光世さんの中で、読み書きのできなかったセキとこの祖母モトさんとが重なっていたのかも知れません。光世さんは、この祖母が亡くなったときこんな歌も詠んでいます。

      北見滝上村に吾を育ててくれし祖母福島県富岡町太田に齢終えたり

   それは、二十年余後、そこから直線距離1キロの所で福島第二原発が稼働を始めることになる場所でした。

                      

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。