「最愛」― 開け放たれた庭にバラが咲いた― 三浦光世の短歌⑤
旅の終りの今朝見たる夢淋し生きよと三度君に告げゐつ
出会いから一年後の1956(昭和31)年7月のある朝(おそらく17日)のこと、三浦光世は堀田綾子がありありと死んでしまう夢を見ました。三浦光世は本当に淋しかったのです。しんとするような、こころの底の深いところに冷たいものが沈んでくるような、耐え難い淋しさだったのでしょう。
三浦光世は真剣に祈りました。命を投げ出さんばかりの祈りでした。一時間ばかりその人の病の癒しを祈ったとき、その耳に「愛するか?」という問いかけが聞こえました。彼は、そのとき、結婚への決心を促されているのを感得して、祈りました。
「『愛するか?』とはどういうことなのでしょう?あの人と一生を共にする覚悟がお前にあるか?という意味でしょうか?神さま、もしあの人と結婚することがみ心でしたら、その愛を私にください。私にはそんな愛はないからです」
その日は実際に何かの旅行が終わる朝だったのでしょう。出張であったのか、私事の旅であったのか、判然としませんが、三浦光世には三浦光世の旅があったのです。そしてたぶん、その朝終わったのは彼の青年時代という旅だったのです。彼の人生はその朝、時計がカチッと音を立てて戻ることのない進みをするように、別の時代に踏み込んだのです。
「生きよと三度」は、その朝の事実でもあったのでしょうが、おそらく旧約聖書エゼキエル書の16章4~6節を思い出しながら詠んでいる言葉です。生れた日に嫌われて誰にも世話されず道端に捨てられた女の子の赤ん坊。自分の血のなかでもがいているのを見たわたしは、血に染まっているあなたに「生きよ」と言い、血に染まっているあなたに繰り返し「生きよ」と言った、という箇所です。そして、「生きよ」と告げたわたし(神)はあなた(イスラエル)を自ら養い育てたという比喩にもなっています。つまり、「生きよ」とは、全責任を担って、愛してゆく覚悟をもって語らねばならない言葉、そのような宣言でもあるのです。それを、愛する存在に向けて、強く三度投げかけたのです。この放っておけば死に行くかも知れない命への愛しさから滲出する〈淋し〉さから、「生きよ」という宣言が噴き出すに至る心の道程は、とりもなおさず、その人をかけがえのないものとして既に愛している自分自身の発見と確認でもあったのです。
そして、自らの口から三度噴き出した「生きよ」はまた、三浦光世自身がその言葉をかけられて、引き取られ、救われた日の記憶をよみがえらせていたのではないかと思います。彼自身が腎臓結核や膀胱結核で苦しみ、さまざまなレベルの血の中でもがいていたときに、「生きよ」と何度も語りかけてくださっていた方の心を、もう一度思うことでもあったでしょう。
三浦光世は、その日の夜、堀田綾子に手紙を書き、翌日18日に投函したと思われます。さらにその翌日19日のことを三浦綾子は『道ありき』に、こう書いています。
その日は、彼と初めて会った日のように、美しく晴れ渡っていた。わたしは、開け放たれた庭を、ベッドの上に起き上って眺めた。大輪のバラがほころび、わたしは何かいいことがあるような予感がした。忘れもしない七月十九日だった。三浦光世から部厚い封書が届いた。手紙には、あなたの死んだ夢を見て、涙のうちに一時間あまり神に祈った。役所に出勤しても、しばらく瞼が腫れていたとあり、わたしの名の上に「最愛なる」という字が冠してあった。
わたしはくり返しその手紙を読んだ。遂に来たのだ。待っていたものが。わたしは「最愛」という文字の上に手を置いたまま、ふるえる心を押し静めようとした。うれしかった。何ともいえないうれしさだった。だが一方で、これでいいのかという思いもあった。第一にわたしは、いつなおるかわからない病人である。そのわたしを愛する彼に、どんなしあわせが来るというのだろう。
開け放たれた庭、大輪のバラのほころび、そして届いた手紙。それらすべてが、新しい季節の開かれてゆくことを、祝福しながら指し示していました。そして「最愛なる」という文字。待っていたものが遂に来たのです。しかしそれは単にうれしいというのとは違うもの、責任を伴うものでもありました。私の名前の上の「最愛なる」の文字。それは三浦光世の文字であると同時に、神の文字でもありました。甘い結果でなく厳しい問いでありました。私はあなたを最愛のものとして愛している。それゆえあなたを最愛のものとして愛する男を与えた。あなたも最愛と言える愛をもって「愛するか?」という問いが、熱く激しく突き刺すほどに見つめてくる問いが、その文字にはありました。そのとき人は震えずにはいられません。真の訪れというもの、待っていた祈りの応えというものは、本当はそのような恐るべきものなのです。だからその人は問われなければならないのです。「お前はその人を幸せにできるか?」と。そしてその問いの前に打たれ悶えて、「私にはできません。少なくともこの私一人では。あなたが愛を下さらなければ」と、人は言わなければならないものなのだと思います。こうして、愛し合う者たちは同じ祈りをするように導かれ、その祈りの中で結ばれ始めてゆくのでもあるでしょう。
*この光世さんの歌は、実はその朝の体験から、約一年後に詠まれたもののようです。ですから、光世さんがしばしばするように、思いめぐらしながらの時間を経て、一年後にそれをとらえ直して確認したとも読めますし、あるいは光世さんはその後も同じような夢を見ていたのだと読むことも可能です。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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