7月21日、夏祭りの昼下がり―『氷点』冒頭
風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝やいて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かかった。その影が生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える。
旭川市郊外、神楽町のこの松林のすぐ傍らに和、洋館から成る辻口病院長邸が、ひっそりと建っていた。近所には、かぞえるほどの家もない。
遠くで祭りの五段雷が鳴った。昭和二十一年七月二十一日、夏祭りの日のひる下がりである。
有名な『氷点』冒頭の定稿(現在私たちが読んでいる最終段階の原稿)です。この冒頭、朝日新聞に応募した原稿では、表題の前の欄外に始まって以下のように書かれていました。
「風は全くない。/松林の影が地に黒く短かかった。その影が不気味に息づいているかのような七月の午后である。辻口家は この松林のすぐ傍らにひっそりと建っていた。近所には数へる程の人家もない。」
応募原稿では、地の影の黒さと不気味さにのみ焦点があるのに対して、定稿では天と地(雲と樹木の影)の対照関係に重点が置かれて描かれます。天の雲の輝き、不動性に対する、地の影の暗さ、蠢き、その不気味さです。そして「和、洋館」「夏祭り」「二十一日」なども定稿で出て来ています。これらのうちの幾つかについては既に『「氷点」解凍』に書いていますが、今日はこの日付と夏祭りに注目してみようと思います。
昭和二十一年七月二十一日、カレンダーを見ると、その日は日曜日でした。上川神社の夏祭りで、その「五段雷」すなわち昼花火(爆竹)が鳴るのが聞こえました。上川神社は神楽岡の神楽地区寄りにあり、辻口家は外国樹種見本林の傍らで神楽岡に比較的近い場所ですから、ドドンドンドンと聞こえたというわけです。※写真は上川神社の石段から見た見本林の方(一番手前の林、直線で一キロ余)
上川神社は旭川市の神楽岡公園内にある神社で、旭川開基後3年の1893(明治26)年上川地方開拓守護の神、旭川の鎮守として創祀されました。祀られている神は天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、少彦名大神(すくなひこな)ほかで9柱。さらに、北海道開拓、上川、旭川の発展に功労のあった鍋島直正、黒田清隆、永山武四郎、岩村通俊も祀られています。
創祀当時は義経台(今の宮下通4~7丁目)に鎮座、のち1898(明治31)年に6~7条8丁目に、1902(明治35)年には、宮下通20丁目に移転しました。数年で最初の地から移転したのはこの義経台に現在も残っている碑の位置(函館本線の高架線路に沿って忠別川の堤防を旭川駅から300メートルほど下流に歩いた辺り)から推測して1898(明治31)年に旭川駅が開業したため、その敷地と線路とが近かった(あるいは重なった)ためと考えられます(宮下通への移転の理由は分かりません)。
その後、1924(大正13)年には皇室の御料地でありかつて離宮が造営される計画もあった神楽岡に、御料林払い下げの松材で社殿を造営し遷座しました。この離宮の計画は1890(明治23)年に一旦決定しますが、数年後には札幌の反対や政府内の闘争などで立ち消えとなりました。神楽岡の現社殿は1920(大正9)年から四年かけてエゾ松材で造営され、1936(昭和11)年には昭和天皇の旭川行幸(この時のことは『石ころのうた』にも記述があります。神社には実際には侍従が遣わされました)に合わせて106段の石段が新設されました。神楽岡は旭川市の南方、標高153mの高台にあって、上川盆地の諸町村と大雪山を一望におさめる風光明媚の所で、昔神様がこの岡に下って音楽を奏したので、アイヌ達が打ち囃しながら踊った、という伝説もあるそうです。アイヌは大きな川沿いの見晴らしの良い所に見張所や砦、宗教的な儀式をする場所を持つことが多かったようですが、神楽岡も忠別川を崖下に臨む高台なっています。そこが皇室の御料地なったということのようです。この神社の例祭日が7月21日です。
このように、上川神社は地域の氏神様のようなものではなく、皇室や北海道開拓の歴史とも縁が深く、特に敗戦までは国家神道的な性格を強く持っていた神社であることがわかります。三浦(当時は堀田)綾子は1933(昭和8)年、小学校5年生のとき、30日間小学校何年生か以上全員で上川神社に参拝するという経験をしていますから、様々な思いのある神社であったと考えられます。
※本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」の朝日を旭川にかけて山桜花を社紋としています。
『氷点』冒頭はなぜ1946(昭和21)年7月21日と決められたのでしょう。戦後間もなくである必要はあったと思いますが、エッセイや年表を見ても堀田綾子にとって特別な日ではなかったように思えます。この年3月末に教員を辞職し6月から結核療養のため白雲荘(市中心部10条11丁目)に入所中でした。彼女の心が淋しさで凍えてしまう〈氷点〉の時期であったことは確かですが、物語の冒頭を7月21日と決めたのは上川神社の夏祭りに合わせるためだった考えられます。
冒頭の光と影、輝く天の雲と地に濃く短くうごめく樹木の影が、辻口家のひいてはすべての人間の二面性を表わしているという読みは、問題なかろうと思うのですが、他方で、そこに旭川、北海道、そして日本の光と影、敗戦を境にした二つの時代、あるいは富国強兵や北海道 “開拓”と連動している国家神道の強大さと民衆の呻き苦しみ、といった様々な対照関係も含意されているのかも知れません。
この日、7月21日。夏枝と村井の不倫まがいの逢瀬に続いて起こるのは、この小説の隠された真の中心であるルリ子と佐石土雄の悲劇的事件です。作りつけたように不動と見えた輝く雲のように幸せな病院長一家の娘ルリ子と関東大震災以降の日本が通った全ての悲惨を背負わされ地を這ってきたような佐石土雄。その日本の光と闇が出会う日。北海道の開拓を底辺で進めたタコであり、召集されてからは中国大陸で残虐行為をした兵士でもあった男の強すぎる手が、瑠璃のように美しくもこわれやすい少女のいのちの首をしめる日、それが7月21日なのです。この佐石土雄の手を造ったものの大元が何であったのか、ひそかに問うている三浦綾子がいるのです。そして、その同じ神社の祭礼の五段雷が、夏枝のからだと心に抑制できない衝動を後押しするものとして働いて、ルリ子を追い出させてゆくのも、同じ質のものがそこにあるからだと見ているでしょう。大きなものたちの自分勝手な“大きな欲望”が“小さないのち”を犠牲にしてきたこと。そんなこの国の歴史の末端が、そしてそんな家族の悲劇の発端がそこにあるからです。
※一番上の写真は三浦綾子記念文学館前にある『氷点』文学碑。見本林の樹木が映っています。下は神楽岡の前川家の近くに咲いていたドクダミの花。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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