幼吾ら三人を置きわが母を置き ― 三浦光世の短歌 ①
幼吾ら三人を置きわが母を置き昭和二年父逝けり三十二才にて
1927(昭和2)年、三歳で父を喪った光世さんが、勿論そのときには何も分かる年齢ではなかったのですが、長い時間を経て、大人になり、わずか三十二歳で逝った父貞治さんのこころを思って詠んだ歌です。まだ二十代だった妻シゲヨさんと幼い三人の子ども(長女は既に親族の家に養子に出していました)を置いてゆかねばならなかった辛さを想いみると、きっと一人一人のこれからへの心配に、父は胸が絞られるようだっただろう。健悦はどうなるだろう、光世はどうなるだろう、誠子は大丈夫だろうか?三人の子どもを一人で育てなければならない妻の苦労はいかばかりだろうかと。その父の心の痛みに寄り添いながら、光世さんは、そうであるがゆえに一人一人のことを真剣に最後まで祈りつづけていた父であったであろうことに、思い至ったことでしょう。髪結い修行に行った母とも離れて「どうして父さんは早く死んでしまったのかなあ」と泣きべそをかきながら、一人でとぼとぼと山道を歩いていた少年時代がありました。父を殺した結核菌に冒されて、腎臓結核や膀胱結核の痛みに悶え苦しんで、一晩でいいからぐっすり眠ってみたいとのみ願っていた青年時代がありました。しかし、思い返してみると、あの時もあの時も、父の祈りは既に先回りして、私を守ってくれていたのではないか。そして、キリストに出逢えたことも、綾子に出逢えたことも……と息子は気づくのでしょう。そうしてもう一度幼時の記憶と母から聴いたことを重ね合わせつつ父を想いみれば、北見滝ノ上の開拓農家の畳もない家に臥して、遺される者のために涙して祈りながら最期の闘病をし、気遣ってくれる妻に「キリストが一緒にいるから淋しくないよ」と言う信仰深い父だったのでした。その姿は、堀田綾子のために祈りつつ三十三歳で逝った前川正によく似ていました。あるいはもしかすると、この父がいたゆえに光世さんは、綾子さんから前川正のことを聴いたとき、嫉妬なしに前川正を深く正しく理解し尊敬しえたのかも知れません。「前川さんを忘れてはいけません」と諭し「前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょうね」と語ったときにも、この父の姿が、おぼろにも光世さんの心の底にはあったように思われます。
三浦家の書斎の隅の棚。二段目には前川正の肋骨の入った箱や手紙がありましたが、一段目には父貞治さんの写真が置かれてありました。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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