シオン・ガーデン

   T君はK子さんのことが好きだと言った。
   なんで彼女が好きなのかと問うと、好きに理由なんかあるでしょうかと静かに言う。彼女に告白したのかと問うと、していないと言う。それでいいのかと言うと、しばらく黙ってから、それでもいいのだと言う。
   しかし、それから何日かしたある日、僕は見た。図書館の横の小さなガーデンで二人が話しているのを。僕は、やったぞ!よく頑張った。そうでなくっちゃ!と心に叫んだ。
   何日かして僕はT君に、彼女に告白したのかと訊いた。彼はうなずいた。どうだったと訊くと、また彼はうなずいた。うなずいたばかりで、彼は何も言わなかった。かすかにうれしいような辛いような目をして、それぞれ、あるから、と独り言のように、ぽつりと言った。
   それからも僕は注意深く様子を見ていたが、二人がつき合っている様子はなかった。図書館わきのガーデンは間もなく書庫の拡張工事で立ち入り禁止になった。背の高い雑草が生い茂り始めた間から、薄紫のシオンの花が咲き始めていた。
   それから、一年半が経ち、T君もK子さんも卒業した。T君は地元のY県の高校教師になって、田舎町に赴任した。K子さんも出身のO県の高校教師になって、県庁所在地の近くの実家に帰っていった。
   僕は大学院に残って勉強を続けたが、その間にT君の下宿を何度か訪ねた。彼はいつも安い給料にとっては随分と奮発して、美味しいものを食べさせてくれた。在学時代のいろんな思い出話をしたが、K子さんのことは彼の口から出なかったし、僕も取り立てて話題にはしなかった。
   ある日訪ねると、T君は宿舎の小さな庭に種をまいていた。何の種かと訊くと、秋になったら咲く花だと言った。もう時期が少し遅いんじゃないかと言うと、いいんだ、今年咲かなくっても、いつか咲けば、と言った。
   僕は七年もかかって大学院を二つ卒業して、短大の教師になったが、ゆえあって十五年ほどでやめて、日本中を歩き回るような仕事についた。田舎では父母が少しずつ年老い始めていたが、自分には何の責任もないかのように兄に全部任せて、十年ばかりは馬車馬のようにがむしゃらに働いた。
   僕が大学に就職して少し離れた県に移ってからは、T君とは年賀状だけのつき合いになっていた。ある年のT君の年賀状には、母がいよいよ介護の必要な体になりました。お互いそんな年齢になりましたね。また久しぶりに会いたいですね、とあった。この久しぶりに会いたいですねは、彼の年賀状には毎年欠かさず書かれている文句だ。もちろんただの社交辞令であるわけではないが、会う機会がないまま三十年が過ぎた。翌年の年賀状の季節が来る前に、T君から喪中はがきが来た。お母さんが亡くなったことが印刷されていて、意外な速さに驚いたことが添え書きされていた。彼は中学生の時から母一人子一人の母子家庭で、今まで結婚しないままで来たものだから、唯一の家族を失ったことになる。

   数年前のこと、O県にゆく機会があったとき、その直前に再会した大学時代の旧友が思いがけない仲介をしてくれて、K子さんと三十数年ぶりに会った。同級生の気安さというのは何十年たっても変わらない、ありがたいものだと思った。彼女はずっと独身で教師を勤めて来て、去年五十五歳で高校を退職していた。少し早いけど、母親の介護をしなければならなくなったからだと言う。彼女は一人っ子で、お父さんの方は三年前に亡くなったらしい。両親がいつ弱るかはわからないことだけど、いつかこうなることはずっと前から決まっていたことなのよと、ほんのり笑いながら、彼女は言った。五分ほど立ち話をすると、もう帰らないといけないの。母を長く一人にしておけないから、と彼女は言って、帰っていった。
   僕の両親も八十を越えて、軽い農作業も難しくなっていたが、窮状を訴えたりして来ないのを良いことに、相変わらず何もかも兄に任せていた。
   去年の正月もT君からの年賀状はちゃんと元日の午前中に来た。僕もいよいよ来年の三月で定年退職ということになりました。高校の国語教師三十七年、立派にとは言えなくても、勤めあげることだけはできるように、あと十五か月頑張ります、と書かれていた。
   ところが、その最後の年、彼は一学期末で高校を退職した。別の友人からそれを聞いて、久しぶりに年賀状でない手紙を書いて安否を問い、何か助けが必要なら言ってくれと送ったが、彼から返事は来なかった。電話も何度かしてみたが、通じなかった。九月になって彼の住むY県に行く機会があった僕は、年賀状を見ながら彼の住所を訪ねた。が、彼はもうそこにはいなかった。近所の人に訊くと、先月引っ越したと言う。彼の小さな庭には薄紫の花が一面に咲き、風に揺れていた。彼の行方は分からなくなった。
   年が明けて正月になったが、彼からの年賀状は来なかった。少し心配になっていた二月末、彼から封書が届いた。中に手紙と、写真が一枚入っていた。

   心配してくれていただろう君に、連絡が遅くなって申し訳ない。ゆるしてほしい。僕にとっては大きなことがあったのだ。それで、思いがけず教師をやめることになった。あと少しだったのに、定年まで勤められなかったのは心残りではあったが、致し方なかったのだ。
   君は三十九年前のことを憶えているだろうか?僕は君に問われて、ある女性に告白した。すべきでないと思いながら、しかし君が背中を押してくれたんだ。あの秋の日のことを僕は忘れない。僕の告白を聴いた彼女は、もったいないですと言って、涙をこぼしてくれたのだよ。その涙の美しさを僕は三十九年間忘れなかった。けれどそれから彼女は言った。僕は彼女が何を言うか分かっていた。彼女は、私は両親をみる必要があるから家に帰らなければなりません。愛してくださっても一緒に歩んでゆくことは出来ませんと言った。君も知っている通り、それは僕も同じだった。親がいるということを簡単に考える人も多いし、実際、お金さえあれば何一つ不可能ではないのかも知れない。でも、僕たちはそうは考えられなかったんだ。彼女は言った。両親は私のいのちの始まりです。あなたにとってもお母さまは、何よりも大切な方でしょう?どうぞ、お母さまを大切になさってください。そしてお母さまを大切にしてくださる方と一緒になられてください。
   僕は、彼女にうなずきながら、言った。僕の思いも同じです。でもいつか、僕たちがそれぞれに大事な仕事を果たし終えたら、そしてそのときに、もし許される状況だったら、二番目に大事なことも大切にしませんか。約束はしません。あなたも約束しないでください。人の事情や心は致し方なく変わることがあるものですから。そしてその日が早く来るようにとも願いません。彼女は、理解しましたと言うように、うなずいた。
   彼女のお父さんが亡くなった時、彼女は獣のように号泣したのだそうだ。僕の母が逝ったとき、僕は葬儀を終えて五日目にはじめて泣いた。涙がいくらでも溢れ続けるのが不思議でならなかった。
   それから、去年思いがけず彼女から手紙が届いた。六月だった。認知症が出てきた母の介護をしていますが、母を見送るより先に私が見送られることになりそうです。約束はしませんでしたが、少しばかり申し訳なく、お知らせいたします。お忘れください。
   僕は一学期で高校を退職して、彼女の所に行った。三月まで待っていたのでは間に合わなくなりそうだったからね。八十代も半ばになったお母さんよりもずっと痩せ細った彼女は、もったいないです、と言って、涙をこぼした。でも、僕はうれしかった。すぐに手続きして、僕にはじめての妻ともう一度母が出来たのだよ。それから五か月と十日ばかりの間、彼女はまぎれもなく僕の妻になってくれた。そして、彼女は十二月の十二日、初雪が降った日に天国に行った。それで、遺された僕は彼女の代わりに、この母を大事にする仕事をさせてもらえることになったわけだ。なんてもったいないことだろう。僕が彼女のいのちの始まりのお世話をさせていただけるとは。
   同封した写真を撮ったのは、十月のはじめごろだったろうか。母も彼女もとても調子の良い日だった。彼女を車椅子に乗せて、少しだけ散歩した。彼女が一番好きだと言った花を花束にして持たせて。
   三十九年前、君が僕に問うてくれたことを、僕は今、心から感謝しているよ。お元気で。

   写真には、やさしい校長先生のように見えるT君と並んで、女学生の時に戻ったようなK子さんがシオンの花束に頬を寄せて微笑んでいた。そして、その後ろでお母さんが、大きな口を開けて笑っていた。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。