カバゴジラ

         カバゴジラ

   その人をぼくは「おねえちゃん」と呼んでいた。けれど、ときどき、機嫌の悪い時や機嫌の良いときには「カバゴジラ!」と呼んだ。
   ぼくに姉はいない。兄がいるだけで、二人兄弟だ。カバゴジラは、母の妹だから、本当は叔母ということになる。でもぼくは小さいころ、カバゴジラを「おねえちゃん」と呼んでいた。
   ぼくが生まれたとき、カバゴジラはちょうど二十歳だったはずだ。気づいたときには、ぼくはもうその背中にくくりつけられていた。ぼくはその背中で飲み食いしてこぼし、洟をたらし、おしっこをした。カバゴジラの写真はあまりないが、背中に一歳半ぐらいのぼくをおんぶして笑ってる写真がある。何がうれしかったのだろうか、背負われたぼくも、はじけたように笑っている。ぼくはカメラの方を、カバゴジラは背中のぼくを見ている。
   幼稚園にあがった頃までぼくは、カバゴジラに添い寝してもらっていたが、少し大きくなってからは、そのことを人に言われるのがいやだった。学校に上がると、休み明けにはいつもカバゴジラが縫った目の揃わないゾウキンを下げて登校した。ぼくときたら裁縫はてんからダメで、何か縫っていても、うまくいかなくて、こんがらがってくると、しまいにはホッチキスでカチンカチン布を留めたりするんだから、カバゴジラの方がまだマシだったのだ。
   小学校一年生のときだった。四月、いちご畑のいちごたちがキラキラ光って、ぼくを呼んでいた。でも、ほんとは少し早過ぎたのだ。ぼくはカバゴジラと一緒にいちご畑に入った。カバゴジラに籠を持たせて、ぼくは採りまくった。籠が足りなくなるとまたカバゴジラに家から持って来させた。いちごは籠に何杯にもなった。
   ぼくたちは草の上に座って、いちごを口に入れた。ちょっとだけ甘くて、ずいぶんすっぱかった。
   「おいしいね、おねえちゃん」
   とぼく。
   「お、お、お、おいしー」
   とカバゴジラ。
   夕方、両親は帰って来て仰天した。ちょうど籠を持って立っていたカバゴジラが雷を喰らった。
   「おい、なんじゃ、それは?まだ熟れとらんのに、全部採ってしもうたんか!」
   ぼくは、その時になって、大失敗をしでかしたことを悟った。
   「ばかたれ、こがんもん、食べられんじゃろが!」
   カバゴジラは、真っ赤になって、
   「おおお、おいしかったんでえ」
   「なにがおいしいもんか!またとんでもないことをして。おまえがひとりで採ったんか?」
   「たたたた……」
   カバゴジラはあわてると、激しく瞬きをする。バチバチしながら何か言おうとするのだが、うまく説明できない。焦るとますますうまく言えなくなる。カバゴジラははげしく瞬きをするばかり。もうダメだ。
   「ぼ、ぼ、ぼくじゃ!ぼくが採ったんじゃ!」
   そう、ぼくは叫んだ。と思ったが、ちっちゃな声だった。ぼくは叱られ、げんこつを喰らった。ぼくが叱られている間にも、カバゴジラは繰り返し言った。
   「おおお、おいしかったんでえ」

   カバゴジラが普通の人とは違うのだと気づいたのは、いつの頃だったろうか。ある日、ぼくは母に訊いた。
   「おねえちゃんは、およめに行かないの?」
   母は笑いながら言った。
   「行かん、行かん。山の向こうのある人がいっぺん、あきちゃんはよう働らくそうじゃないですか。うちのおいっこの嫁にきてもらえんかのお、と言うちゃったんじゃけどなあ、お金の計算もできんし字も読めん、あんなものが、どがんもこがんもならんでしょう、言うて断ったんじゃ」
   「じゃあ、おねえちゃんはずーっとここにおるん?」
   「うん、そうじゃ。ずーっとおる。死ぬまでおるんじゃ」
   「ふーん」
   ぼくは、うれしいような、残念なような、よくわからないきもちになった。

   うちの便所は汲み取り式だったので、カバゴジラは肥汲みをした。からだは丈夫なので、重いものも持てる。大きなバケツにロープがかかっていて、太い樫の棒で前後ろに二つ担いで、畑に持ってゆくのだ。
   カバゴジラはいつも、トッポン、トッポンさせながら、
   「ほれーえ、あっちいけー、くせーぞお、くせーぞお!」
   と言って通る。子どもたちがワーッと言って逃げ惑うのを見るのがうれしそうだ。
   S子は近所に住む下級生の子だった。S子はカバゴジラを見ると、肥を運んでいなくても、いつも、バカにしたように鼻をつまんで、
   「くせー、くせー。あっちいけ」
   と言う。ある時は、
   「あきちゃんは、ばか?」
   と、面と向かってカバゴジラに訊いたこともあった。
   ところが、ある日、カバゴジラが肥を運んでいるとき、S子が家の生け垣から駆け出してきた。何かに夢中でよそ見して走っていたから、肥のバケツにぶつかって、転んだ。S子は座りこんで、ワーッと泣き出した。膝に泥がついていた。泣きながら、S子は憎々しげに、にらみつけて喚いた。
   「あ、あ、あきちゃんのせいじゃ。ばかあき!ばかあきがわるい」
   カバゴジラは駆け寄った。怒った顔のS子の膝の泥をはらいながら、自分の方が痛そうな顔をして、こんな時の一つ覚えを繰り返し言った。
   「いてーの、いけ。いてーの、いけ。ふーふー」
   実はそのとき、ぼくは見たのだ。怒りまくるS子が足をむやみにジタバタしたものだから、肥のバケツを蹴ってしまい、その拍子にトッポンがピッチョンになってS子の頭に飛んだのを。

   ぼくは、何でも一番になりたがる、くそ意地の強い、そのくせおっちょこちょいのガキだった。
   小学校五年生だったろうか?休み時間の最後、一五〇人ほどの全校児童が校庭に集まってするなわ跳び競争で、ぼくははじめて一番になった。それから、休憩時間の後は、近視予防のための遠方凝視だった。百メートルほど先の山の赤茶けた土の所に丸い印の描かれた看板があって、校庭からそれを右目、左目と替えながら一定時間凝視するのだ。一番になったぼくの心は、得意で得意で張り裂けそうに喜んでいた。
   ところが、その日、その山すそにカバゴジラがいた。ときどき、学校の様子を覗きに来るのだ。凝視が始まったとき、カバゴジラも子どもたちと同じように向こうを向いてしゃがみこみ、すぐ上の凝視の板を見ていた。ところがするりとモンペを下ろしたかと思うと、おしっこを始めたものだから、全校生徒がそれを見ることになった。わーっと、笑いが起こった。
   「あきちゃんじゃ。……たっちゃんのおねえちゃんじゃ」
   女の子たちはくすくす笑いしながら何か話している。顔から火が噴き出そうだった。縄跳びで一番になった喜びなど吹き飛んでいた。下校時間まで顔を上げられない気持ちだった。帰り道、くそっ、くそっと、田んぼの畦のヒガンバナをむちゃくちゃに蹴った。
   ぼくは、帰るなり、どなった。
   「ばかーっ、カバゴジラ! もう学校の近くに来るな!」
   しかしカバゴジラは、ぼくがどうして怒っているのか分からないらしく、きょとんとして、人形をだっこしていた。学校の帰り道に子どもたちが捨てていった古びた人形だ。その首にはやはり拾って来たビーズのネックレスも掛かっているが人形には長すぎる。
   ぼくは腹が立って、人形を引ったくった。
   「なな、なにすんか!かえせ」
   土間に投げつけると、ネックレスの糸がちぎれて、ビーズが散らばった。
   からだの元気なカバゴジラは旺盛な食欲をおさえられず、いちじくを木一本丸ごと全部食べてしまったり、必要があって取っておいたものを食べたりしては叱られた。学ぶということが弱いから、何度叱られてもまたやってしまう。叱る母も腹が立って、とうとう叩く。叩かれると、
   「やめえ、やめえ」
   「やめえたあなんじゃあ!何べん言うても分からん。もうこらえたらん!」
   「やめてちょうでえ」
   「ばかたれ、ちがおうが、ごめんなせーと言うんじゃ!」
   「ご、ごめんくだせー!」

   折檻が高じてくると、さすがのカバゴジラも泣き出す。
   「ひーん、ひーん。ひーん、ひーん」
   動物のような泣き声だった。でも、本当に泣いているのか、逃れるための嘘泣きなのか、判らない泣き方だった。
   でも一度、ほんとに泣くのを見たことがあった。あるとき、何か問題を起こしたカバゴジラを叱っていた父が言った。
   「もうこらえたらん。人買いに売ったる」
   母も言った。
   「そうじゃ、売ろう、売ろう。人買いに売られたら遠いところに連れて行かれて、死ぬまで働かされて、もう帰ってこれんのんじゃ。こんど、ボロ買いが来たら、売るど」
   「……う、う、う、売らんでくだせー。う、売らんでくだせー」
   カバゴジラは本気で泣いていた。
   それから何か月かあと、ボロ買い(廃品回収業者)が来たとき、いつもは好奇心旺盛なカバゴジラが出て来なかった。部屋に閉じこもっているのかと思ったら、夕方になって山の畑から帰って来た。
   でも何度目かには、もう大丈夫だと思ったのか、忘れたのか、出てくるようになった。ボロ買いは廃品を買うだけでなく、紙風船とか子どもが好きそうなちょっとした物をくれる。カバゴジラもそれがほしいのだ。ぼくはそのときふと思いついて、冗談の意地悪を言った。
   「今日は、買ってもらいにきたんか?」
   そのとき、カバゴジラの目にさっと、暗い色が走った。悲しい目だった。ぼくは、意地悪を言ったことを後悔した。

   カバゴジラは、程度は軽いが、生れつきの知的障害者(当時の国の用語では精神薄弱)だった。
   あるとき、母が言った。
   「あき子のあの障害はDNAじゃないと思うんじゃ」
   母が四歳の頃のこと、それはこの国が海の向こうの大きな国と戦争を始めようとする少し前だった。ある晩、ドシン、ドシンという物音で目が覚めた。不審に思って襖の隙間からのぞいて見ると、お父さんがお母さんのお腹の上に馬乗りになって、お尻をドシンドシンと繰り返し落としていた。ああ、お腹が痛い!と母は思った。お母さんもお父さんも恐ろしい形相だった。その時は分からなかったが、大人になってから考えると、それは夫婦でお腹の子供を殺そうとしていたのに違いない、と母は言った。
   「あき子はそんなにされても死ななかったんじゃ。つええ子じゃ。でも、その代わりに脳に障害が出たんじゃないかと、わたしは思う」
   真偽のほどは誰にも分からないことだが、そうして、カバゴジラは知的な障害をもって生まれた。
   カバゴジラは小学校一年の途中までしか学校に行っていない。家から学校へ行く途中に小さな橋があるのだが、そこまで来ると上級生の男の子が「お前なんかここから落としてやる」と脅したのだそうだ。ちょっとからかっただけのつもりなのだろうが、カバゴジラはそれが度重なるうちに恐くて学校へ行きたくなくなった。それから、ずっと家にいるので字はほとんど読めないし、幾らかの数を数える以上の計算もできなかった。それからは、草取り、肥汲み、薪割り、掃き掃除が彼女の人生になった。
   それでも、小学校の卒業証書だけはおばあちゃんの仏壇の下にある。十二歳の春、会ったこともない先生が来て、置いていったのだ。

 カバゴジラは母の妹だから、母が叱るのは問題ないが、父が度を過ぎた恐ろしい大声で怒鳴ったり蹴ったりすると、母は、
   「わたしの妹に、なんでそこまでするんか」と、むしゃぶりつく。父が振り払うと母は転びそうになる。夫婦げんかが始まると、子どもにとって家は地獄だ。ぼくは、思った。
   「なんでこんな人が内にはいるんだろうか。よそにはいないじゃないか?こんな人、いなければいいのに」
   そしてぼくはもう「おねえちゃん」とは呼ばなくなった。用事がある時は、縁側に雑巾がけしているその背中にむかって、こう呼んだ。
   「おい」
   これはほんとうに間違いだったと、後で思った。それに、あっちが叔母でこっちが「おい」だ。

   カバゴジラはよく鼻歌を歌った。
   「かーらーす、なぜなくか。からすのやーまーに、かーわーいなーつの子がおってんじゃ」
   ときどき、小さな鳥が来て、カバゴジラの手から何か食べていた。あるときは、手の中に雀を持っていた。
   「ほ、ほれ、やろうか?」
   「どうやってつかまえるんか?」
   「き、きたら、つかまえるんじゃ。」
   そんなこと言われても、ぼくのそばには小鳥なんか来もしないし、つかまえられもしない。一度、その手から小鳥をもらったことがあったが、ぼくの手の中で小鳥は暴れて、脚が刺さるのか、痛くて、逃がしてしまった。

   カバゴジラはときどき、ほとんど耕作していない山の畑に行っては、もうずいぶん前に死んだおばあちゃんがしていたのを真似て、何か植えた。でもお金を使えないカバゴジラは種を買ってくることはないから、前の年になった実の種を取っておいて蒔く。それもおばあちゃんがしていたことだ。干からびた種だが、水をやっていると、黄色いような小さな芽が黒い土から吹いてくる。何の野菜だか分からないようなものが、ちょろちょろと生えてくる。
   それを父が、気まぐれのように時々耕運機を持ち出しては、
   「やっちゅもねえ!」
   と言いながら、耕し返してしまう。何もかもなくなっても、カバゴジラは別に何も言わない。大して哀しくも悔しくもないようだった。

   ぼくが十八歳の春、大学に合格した日、カバゴジラは近所の会う人会う人にそれを言って回った。ぼくは何だかしゃくだった。
   「わからんくせに」
   「わわ、わかっとらあ」
   「大学が何するところか言えるんか?」
   「べべ、べんきょーするところじゃろ」
   「勉強なら小学校でもするわ。どんな勉強するところか、分かっとんか?」
   激しく瞬きして何か言おうとしたが、やめて、カバゴジラはうつむいた。
   「難しい勉強して、真理を見つけるところじゃ」
   ぼくがそう言うと、もう、ついて来られないようだった。

   ぼくは家を離れて、大学と大学院に合わせて十一年も行ったが、奨学金があったのは六年間で、残りの五年間は、このカバゴジラに国がくれる障害者年金を母がそのままこちらに回してくれて、その金で下宿代を払い、本を買い、三度のご飯を食べた。その事情をぼくは勿論知っていたけれど、ぼくは一度もカバゴジラに「ありがとう」と言わなかった。
   ぼくは二十九歳で大学の教師になって結婚し、故郷から更に遠い県に移った。父母と兄は結婚式に来たが、カバゴジラは呼ばなかった。
 翌年、長女が生まれた時、カバゴジラは姉であるぼくの母に連れられて、何度も乗ったことのない新幹線に乗ってぼくの家にやって来た。カバゴジラの頭にはもう白髪が混じっていた。来てしばらくすると、何か母に促されて、もそもそしていたカバゴジラは、やっとのことでくたくたに草臥れた袋から何か取り出すと、ぼくの前に置いた。それは水引の掛かった金封だった。カバゴジラはお金の額などわからないし、封を用意したのも母だろう。カバゴジラはそれから正座して、恥ずかしい時や緊張した時にする癖で激しく瞬きをしながら、けれど丁寧にこう言った。
   「ママ、マナちゃん、おたんじょー、ありがとうごぜーます」
   「マナ」と言うのは生まれたばかりの長女の名前だ。ぼくは、噴き出しそうになった。間違えとるわ。母に教えられて、何度も口で反復して練習し、心の中でも何度も繰り返したにちがいないのに、どうなってるのか?しかも、あわてるから「ママ」にも、「おたんじょー、ありがとうごぜーます」だ。でも、少し考えたとき、ぼくはわかった。たぶんそうして繰り返し繰り返しするうちに、いつの間にか「おめでとう」が「ありがとう」になったのだ。言葉を知らないからじゃない。それのほうがカバゴジラのこころにはぴったりだったのだ。兄よりもぼくが先に結婚して子どもができたから、我が家の初孫なのだ。それを見せてもらえるだけで、うれしくてたまらなかったのだ。
   カバゴジラは赤ん坊をのぞき込んでは、笑いながら瞬きした。口を開けてのぞきこむから、金歯がいくつも見える。母が赤ん坊を抱き、それからちょっとだけ抱かせてもらったときは、真っ赤になってまた激しく瞬きをした。赤ん坊を見て笑うカバゴジラを見ていると、それがぼくをおんぶしていた二十歳過ぎの写真の顔と同じだと気づいた。
   それから、日が経つにつれて「おたんじょー、ありがとうごぜーます」の言葉は、ぼくの胸に応えてきた。それでも、ぼくはカバゴジラに何もしてやらなかった。妻は、おばちゃんにと言って、温かそうな下着を何度か贈った。

   カバゴジラは六九歳で死んだ。癌だった。
   「あき子がなあ、ようねえんじゃあ。もう長うもたんと病院の先生が言うてんじゃ。いっぺん帰ってきてくれんかなあ」
   町立病院は何年か前に建て替えられて、近代的になっていた。赤いサルスベリの花が窓から見える三階の部屋で、若い時は丸々していたカバゴジラが枯木みたいに干からびて、小さくなっていた。ベッドの上に横になって、目だけきょろきょろさせて、何か言おうとするのか、激しく瞬きしていた。ぼくは、その日、ちょっとした決心をしていた。遅すぎたけど言おうと。ぼくは内心恥ずかしくて、少し緊張していた。ぼくは小さくなったカバゴジラの手を握って、言った。
   「おおお、おばさん、おめでとう!」
   しまった、間違えた。何てばかだ!気づくと、ぼくは激しく瞬きしていた。
   「おばさん、あ、ありがとう。いままで」
   今度は言えた。ぼくを見ているカバゴジラも激しく瞬きしていた。何か言おうとしているのだが、言う力がないのだ。ぼくはベッドの傍の椅子に腰を下ろした。そしてそこに半日坐っていた。
   それから目の前で起きたことは、不思議としか言いようがない。ぼくの家の近所の人たちが次々と列を成すようにやってきては、一人ずつカバゴジラの手を握って、こう言うのだ。
   「あきちゃん、ありがとう。あんたはよう、うちのてごをしてくれたなあ。ありがとう」
   「てご」というのは手伝いことだ。確かにカバゴジラはみかん一個アンパン一個で一日畑仕事の手伝いをした。
   「あきちゃんがおってくれて、よかったわあ」
   「あきちゃん、はようようなって、家に帰って草取りせんといけんでえ。盆がくるけえなあ」
   と励ましてくれる人もいた。その度にカバゴジラは激しく瞬きをした。

   それから四五日してカバゴジラは死んだ。それはこの国が戦争に負けた記念の日だった。おかげで、カバゴジラは毎年たくさんの人に、ついでに思い出してもらい、思い出してもらえなくても、黙祷してもらえることになった。
   町に一つしかない農協の葬儀場で葬式があった。百五十人ほど入るホールには、真中に通路があり、前から見て左側にわれわれ親族や近所の人が座った。あわせて十五人もいただろうか?ところが、反対側に、カバゴジラが晩年を過ごした、知的障害者の施設の仲間が六十人ほど、大型の貸切バスで来て、参列した。この仲間は葬式というものが、あまりよく分かってないみたいだった。みごとな花があふれるばかり飾ってあるその中央に、最近見なかった顔がある。意外なものを見つけたと言うように、
   「あ、あきちゃん」
   「あ、あきちゃん」
   と、指さしたりしながら、口々に言っている。
   葬儀が終わり、棺が出てゆくとき、僕が骨箱を、兄が写真を持った。霊柩車が待つ出口に向けて進んでゆくに連れて、施設の仲間のあちこちから声が上がった。
   「あ、あきちゃん」
   「あきちゃん」
   「あきちゃーん」
   「あきちゃーん」
   仲間の誰かが拍手をした。すると、ほかの仲間も、これは拍手するものだと思ったのか、みんなが一斉に拍手し始めた。手が痛いだろうにと心配になるほど、力いっぱい手を叩く仲間もいた。つられて近所の人たちも拍手した。
   こうして万雷の拍手に送られ、名前を呼ばれながら、カバゴジラは、霊柩車に乗せられ、燃やされるために走り出した。霊柩車に乗るとき、ぼくはちらっと遺影を見た。黒縁の中のカバゴジラはちょっとだけ笑っていた。ぼくは心の中で言った。
   「おねえちゃん。生まれてくれてありがとう。また、いちご畑で、いっぱい、いちご採ろうな」
   すると、写真のカバゴジラが、また激しく瞬きをした。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。