どら猫と一寸法師

   私のあだ名はどら猫だった。これが女の子につけるあだなかよ?と思うが、いちばん私を知っている親がつけたのだから仕方ない。ぐるるる。
   中学二年生の秋だった。どんな事情だったか忘れたけど、ある日曜日、私たち女の子四人と男の子四人のグループで映画を見に行った。その中に彼もいた。男の子たちの誰かの友だちだったのだろう。私は少し前から意識して彼を無視していた。彼が私に好意があるらしいと気づいていて、だけど、いかさない子だったからだ。ちびで、顔も子どもっぽくて、秀でたところが何もなかった。その日の私のちょっとしたお目当ては、最近バスケ部のキャプテンになった別の男の子だった。
   映画が終わって、みんなで何か安くてあったかくて、うまいものを食べようと、入ったのは、結局いつものお好み焼き屋。ところが、ワイワイやりながら食べ終わってお勘定になったとき、一人ずつ支払ったのだけど、私は、順番がくる直前になって財布がないのに気づいた。白い布製の小さな財布だった。
   どこを探しても出てこないので、真っ青になった。ところが、その日はみんな貧しくて、何と、私一人の分を立て替えられる人が誰もいなかった。私は多めに持ってきてたのに、と思ってみても、どうにもならない。ぐるるる。
   私は、
「誕生日にお母さんに貰ったばかりなのに」
   と、泣きそうな気持ちになって言った。しばらくみんなであちこち探してくれたけど、やっぱり見つからない。 諦めて、後で代金持ってくるしかないかと思った、その時、一番遠い辺りから帰ってきた、あのいかさない彼が、言った。
「これじゃないかな?」
   見ると、その手に白い布製の財布があった。
「あ、それ!」
   私は、ありがとうも言わずに受け取って、レジを済ませた。ところが、よく中を見ると、明らかにお金が少ない。彼を見ると、一瞬、目がおよいだ。
「あんた、盗ったね?」
   私は彼を睨んだ。
「えっ。と、盗ってないよ」
「嘘つき」
「盗ってないよ」
「じゃあ、どこで見つけたの?」
「どこって……、えっと、あっち」
「私が、分かんないと思ったの?……親切なふりしてさ、馬鹿にするなよ」
   彼は何も言わなかった。

   翌日、月曜日のお昼休みのこと。まだ木造校舎の時代だった。トイレから出て来たら、向かいの男子便所の戸が開いたままになっていた。今出て来た生徒が激しく押し過ぎて、戻らなくなったのだろう。見ようと思ったのではないが、奥に男子の便器が並んでるのが横向きに見えた。その手前に、仕切り板があって、ちょうど腰から胸の辺りまでを隠すようになっていた。ところがそのとき、一番手前に、彼が横向きに立って用を足していた。昨日財布からお金をくすねたあいつだ。それが、背が低くて足が短いものだから、仕切りで隠せているのは腰の上から首までで、頭部と小さなオチンチンが見えてしまっていた。
   さすがに目をそらして足早にその場を離れたが、それから、だんだん可笑しくてたまらなくなって、一人で秘密にしていることが出来なくなった。クラスに帰ってから、リアルになり過ぎないように簡単な絵に描いてみた。描いているとますます可笑しくなって、
「ねえ、これなーんだ?」
   と女の子たちの輪の中に入っていった。みんな爆笑した。それを、誰かが黒板に貼った。彼のイニシャルと「S嬢が見た、チイサナ悲劇」という文字がタイトルっぽく書き足されていた。運悪く、その日に限って、昼休みが終わって最後に教室に戻ってきたのが彼だった。つまりクラス全員がそれを見たのだ。彼はそれを見ると一瞬凍りついたようになったが、笑いながら剥ぎ取ると、丁寧に折り畳んでポケットに入れ、ちょっと苦しそうな笑いのまま、席についた。
   彼は翌日、学校に来なかった。担任の先生は、彼からの届けをそのまま受け取って、
「風邪で欠席だそうだ。みんなも気をつけるんだぞ」
   と言った。女の子の何人かがクスっと笑った。彼は次の日もその次の日も欠席した。もう誰も笑わなかった。まずいかな、やりすぎたかなとも思ったが、あんなことする奴はこれぐらい懲らしめなきゃ、という思いがそれを抑え込んだ。

   その日、つまり彼が欠席し始めて三日目の夕方のことだった。帰宅した母が、
「ほい、大好物のお好み焼きだよ」
   テーブルにホカホカの包みを置くと、続けて言った。
「それから、もひとつ、ほい。あんた困っただろうに、何にも言わないんだねえ。黙って探してたのかい?」
   母がそこにもう一つ置いたのは、白い布の小さな財布だった。
「さっき、お好み焼き屋さんに行ったらさ、忘れ物ケースに、これがあるじゃない?まさかと思ったけど、見せてもらったら、中に、私があんたにプレゼントする時に悪戯で描いたどら猫がいた。こりゃ、私が描いたあんただ。間違いないから、貰って来たよ。……あんた、この間映画の帰りに友達とお好み焼き食べて、忘れて来たんだろう。馬鹿だね、どこで財布なくなったのかも分かんないのかい?だいたい、どうやって勘定……」
   終わりまで聴かずに私はその財布をひったくって、中のお金を見た。そうだ。失くしたとき、これぐらい入ってたはずだ。私は階段を駆け上った。部屋の机の引き出しから、白い財布を出して、二つを並べた。なぜ?なぜ、二つもあるの?引き出しから出した財布の底には、どら猫はいなかった。母さんが、百円玉や十円玉を一杯にしてプレゼントしてくれたから、私は、貰ってから一度もどら猫に気づいてなかった。ほんとに馬鹿だわ。今日母さんが持って帰ったのが、間違いなく私の財布。だったら、こっちは誰の?こんなそっくりなのを同じ店で同じ時に忘れてった人がいるってこと?その人も困ってるんじゃないかな。こっちの財布、早く持ってかなくっちゃ。私が盗んだような格好になっちゃってるじゃない!……あの馬鹿な子!もう、やめてよね。どこから誰のを拾ってきたの?
   あっ、とその時、私は気づいた。半月ほど前だ。クラスで何かの集金があって、彼が集金係をしていた。私はもらったばかりの白い布製の財布を持っていて、その財布から、お金を出した。集金係の彼はそれをじっと見ていた。……そうだ、彼は私と同じのを持ちたくて、それから街で探したんだ。そして見つけて買って、あの映画の日、持ってきてたんだ。私が財布を失くして、あんまり困った顔してるものだから、自分の財布を出して言ったんだ。
「これじゃないかな?」
   そうだ、私が彼からお金を借りたりしたくないだろうということも察してたし、母さんに貰った大事な物だと私が言ったからだ。あの日、あれから起きたこと、いいえ、私が言ったこと、翌日私がしたことときたら。……私は次々と思い出した。全部全部、思い出した。それは胸の奥から何かずるずると長くて黒くてぬめぬめとしたものを引きずり出されるような、感触だった。
   わーっ!と、私は叫んで、うつ伏して泣いた。でもそれはほんの数分。私は、財布を二つ掴んで走り出した。彼の家は知っていた。生まれた頃からの幼なじみじゃないけど、彼が近くに引っ越してきて、転校生として、クラスに入って来た日を思い出した。小学二年生なのにやっぱり小さくて、幼稚園児かと思った。私の前の席で、不安そうにびくびくして、一時間終わるごとにトイレに行ってた。帰り道、前を歩いてる彼のうつむいた首、坊主頭、ぼんのくぼをしばらく見ていた私は、後ろから近づいて彼の手を握って、
「元気出しなよ。一緒に帰ってやるからさ。ぐるるる」
   と言って笑いかけた。彼もその日初めて笑った。六年前だった。何て馬鹿な私!あのぼんのくぼを、泥靴で踏みつけるみたいなことをして。

「ごめんなさい。私が馬鹿でした」
   私は彼の家の玄関で土下座して謝った。彼のお母さんがびっくりして、私を抱き起こそうとしたけど、私はそのまま何度も謝った。彼は何も答えず、ちょっぴり笑った。ほっとしたような、でも、それよりも、悪戯を暴かれた少年のような、笑いだった。そして、彼のその笑顔は素敵過ぎた。そのとき、私の心に大逆転が起きた。
   私は翌日から、朝、彼の家の前で待ち伏せして、彼と手をつないで登校した。最初は嫌がったけど、私の魅力に抵抗できるものか!校門近くで女の子たちの驚いたこと。
「あんた、頭おかしくなった?」
   とも言われた。
   でも、私は何ともなかった。いや、私はとっても幸せだった。神さまは、それから素敵なお釣りまでくれた。半年後、中学三年生になった彼は急に身長が伸び始めて、毎月何センチも伸びて、私よりずっと高くなった。体つきも顔も男らしく凛々しくなった。女の子たちは私を羨ましがった。彼の白い布製の財布と私の白い布製の財布。今はそのお揃いがうれしくて誇らしい。私はある日の帰り道、彼に言った。
「ねえ、財布貸して」
   私は、彼の財布の内側に、どら猫を描いた。前の晩練習して私のとそっくりに描いた。つもりだったけど、ちょっと情けなさそうな顔になってしまった。その時、彼の財布を一旦空にするために中身を全部出したら、硬貨と一緒に小さな包みがあった。きれいな柄のついた薄い布で厳重に包まれていた。
「これ、何?金運のお守りかなにか?……開けてみてもいい?」
「えっ、あ、まあ……」
   彼はちょっと恥ずかしそうな目をした。開けてみると、中には葉書大ほどの紙が一枚折り畳まれて入っていた。それを開いたとき、私は顔から火が出そうになった。
「いやだ、なんでこんなもの、大事に取ってるの!」
   それは、私が描いたあの絵だった。
「お守りだからね、ずーっと大事にするよ」

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。