「陽子ちゃん、出ておいで」

   6月24日は綾子さんの妹陽子さんが6歳で夭折した日です。1935(昭和10)年でした。医者が結核を腸チフスと誤診して手遅れになった陽子さんは、最後の数日間、旭川市立病院に入院しましたが、病院のベッドが空くのを待っていた一日、綾子さんに「陽子は、死ぬの?」と尋ねました。既に目の周りは黒ずみ、死相がありありと出ていたそうです。その数日後のこと。

 わたしたちきょうだいは病院に呼ばれた。家から病院までの一キロ余りの道を、わたしは泣きながら走った。病院に着くと、妹はしきりに寒い寒いといった。六月二十四日のその日はあたたかかった。
 わたしは、弟の乗ってきた自転車に乗って、湯たんぽを取りに帰った。ペダルを踏む足が、夢の中のように、もどかしいほどのろかった。湯たんぽを入れても、陽子はしきりに寒がった。わたしは弟と共に一心に陽子の手をこすった。が、陽子の手はわたしの手の中で冷たくなっていった。(『石ころのうた』)

 こうして、わずかに満六年と二日の人生を生きて、妹陽子さんは亡くなりました。陽子さんは赤ん坊のときから不思議なほどに泣かない子で、二歳で字を読み始め、亡くなる頃には小学校四年生の兄昭夫さんの教科書を読み、算数も覚えていました。いじめられても泣かず、逃げもしない子でした。女学校一年13歳だった綾子さんは「これほどの悲しみがこの世にあることを、私はその時まで知らなかった」と『草のうた』に書いています。
   理由もわからず幼くして死んでゆかねばならない者の怖れと淋しさは、綾子さんの心の深い所に沈んでいる石のようなものでした。それから何十年経ってもこの妹のことを語る綾子さんは涙を堪えることができませんでした。陽子さんを喪って後、綾子さんは、愛惜の余り、幽霊でもいいから陽子に会いたいと思い、家の近くの暗くて淋しい場所へ行っては、暗がりに向かって「陽子ちゃん、出ておいで」と呼んだといいます。陽子さんから発せられた「陽子は、死ぬの?」という言葉が叫んでいる絶望と淋しさを綾子さんは放っておけなかったのです。この言葉は敗戦後、綾子さん自身が同じ淋しさを体験させられたとき(彼女はその心を“氷点”と呼ぶのです)、彼女の生涯のテーマとなる問いともなりました。絶望から生き返る道、淋しさの底で呼び求めるものを放っておけなくて応えてくれる存在との出会いを、綾子さんは激しく求めました。その軌跡は『道ありき』に語られるとおりです。そして、この妹への哀惜はやがて、時満ちて歩み出した最初の小説『氷点』のヒロインに「陽子」と名づけさせることになりました。だから綾子さんは『氷点』の陽子を死んだままにはできなかったのです。三日三晩の昏睡の後、息吹き返させ、『続氷点』の最後には、ついに神の愛を知るに至る物語にせずにはいられなかったのです。

 この妹陽子さんの死から29年後の1964年の同じ6月24日、旭川市東町(現豊岡)の三浦商店を訪れた人がいました。朝日新聞の門馬義久デスクでした。門馬氏はその年朝日新聞が募集した一千万円懸賞新聞小説の選考で入選が有力になっている作品『氷点』の著者を訪ねて、確かに本人が書いたものかどうか確かめるという目的で来訪したのでした。その時のことを後に回想したなかで門馬氏は、綾子さんを見たときに「陽子だ!」と思ったと言っています。生き生きとした精神性を表す目の輝きがそう思わせたのかも知れませんが、この日、42歳の雑貨屋を営む主婦が17歳の美少女陽子に見えたのはなぜだったのでしょう?門馬義久は社に帰って、著者に問題のないことを報告しました。そうして『氷点』は入選作として世に出ることが決まりました。つまり、朝日新聞から派遣された門馬義久はこうして、この日「陽子ちゃん、出ておいで」と呼びかける役割を果たしたのでした。それはいわば、絶望の墓穴から前川正と三浦光世を通して呼び出されて生き返ったラザロである綾子さんの最後の包帯がほどかれて、世界に向かって躍り出て語り出す奇跡の瞬間でした(綾子さんが一番好きだった聖書の箇所であるヨハネの福音書11章のイエスが墓穴の死人ラザロを呼び出す物語を参照ください)。それが、堀田陽子の30回目の命日でした。

※写真は上が、陽子さんが亡くなる日に綾子さんが市立病院と家とを何度も往復した牛朱別川の堤防の現在。下は開業間もない頃の三浦商店。この写真は生涯の親友黒江勉さんが撮影したものです。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。