大槻博子先生

 

   小学校三年生になって綾子さんは、現在の旭川市六条十丁目に移転新築したばかりの旭川六条教会の日曜学校にゆくようになりました。同級生の石原寿みに誘われて行った日曜学校の三年生の受持は大槻博子先生という細面の、どこか淋しげな、美しい人でした。そのとき大槻博子先生は十九歳でした。学校の先生というのは生徒を叱るのが仕事だと綾子さんは思っていたのに、大槻先生は全く違っていました。
   大槻先生は級長のバッジを付けている綾子さんに忘れられない言葉を教えてくれました。「級長になったからといって、決して威張ったりしてはいけませんよ。イエスさまは、威張ることが大嫌いですからね」。これは、綾子さんのこころに長く残る言葉になりました。ごう慢な心、自分を誇る心ほどみにくいもの、神さまを悲しませるものはないと、綾子さんは後に何度も書いています。「大作家になったからといって、決して威張ったりしてはいけませんよ」という声が聞こえていたのかも知れません。
   この大槻博子先生は、一九三〇(昭和五)年に十八歳で洗礼を受け、一九三三(昭和八)年六月二十六日に二十一歳で結核のため亡くなっています。綾子さんが教会学校に通ったのは一九三一年の五月から翌年の春ごろまでと思われますので、綾子さんが教会学校に来る前の年に洗礼を受け、綾子さんが来なくなって一年ほどで亡くなっているのです。
   綾子さんが生れて初めてキリスト教を学んだ大槻博子先生は純粋な信仰の人でした。後になって、綾子さんは、「この先生の祈りも神に聞かれて、私はキリストを信ずるに至り得たのかと、深い感謝を覚えた」と書いています。神が人を選び用いられることの厳粛さということを感じさせられます。大槻先生は亡くなるとき、神さまのために僅かしか働くことのできなかったことをお詫びするお祈りをして天国に旅立たれたそうです。「イエスさまは、威張ることが大嫌いですからね」と教えた大槻博子先生は、きっと天国で「わたしが三浦綾子に最初に聖書を教えたのよ!」などと自慢したりしないんだろうなあと思います。今日は大槻博子先生の命日です。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。