向こう岸へ渡ろう ― 榎本保郎召天の日に
「イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」(マルコ4章35節)
1973年の春、今治教会牧師だった榎本保郎はこの言葉を神からの語りかけとして聞き、アシュラム運動への召命と受けとめました。すでに保郎の肝硬変は進んできていました。自分の弱さ貧しさを思い、困難さに恐れを感じ、教会員への断ち難い情愛と行く末の生活への不安を思うと、そのきびしさに足のすくむようでした。そして二年間この召命から逃れようとしました。しかし、1975年4月、イスラエルに旅したとき再び語りかけられました。
朝早くガリラヤ湖畔にたたずみ、ひとりで祈っていた時、「向こう岸に渡ろう」という強烈な主イエスの迫りを感じ、最早この主のみ言葉から身を避けることができず、心ひそかに決心したことであった。流れ出る涙と共に心は全く日本晴れのようにすがすがしかった。わが心定まれり、わが心定まれり、と詩篇の言葉を口ずさみながら立ち上がったあの時のさわやかな心は忘れ難い。
しかし、旅から帰り、日常生活に戻ると、再びあれは一時の感情ではなかったのかという思いが起きて来、せっかくの決心もぼやけだした。これでは大変と私はだれにも相談せず、教会に辞表を提出し、自ら後へ下がれぬようにとどめを刺した。その間実に二年の歳月を要した。(「三度目に同じ言葉で祈られた」『聴くこと祈ること』所収)
迷う自分に“とどめを刺した”という言葉、ゾクッとしますね。上記の文の最後に「二年の歳月」とありますから、最初に「向こう岸へ渡ろう」と聞いたのは1973年の春ということになります。
『ちいろば先生物語』によれば、保郎は73年の段階で一度今治教会に辞表を出していますが、その時は教会員が先生のアシュラム運動を支持しますからと言って、一旦留意されています。その頃(恵さん、てる子さんの年齢から)のことを『ちいろばの女房』で和子さんはこう書いています。
子どもは、るつ子はすでに結婚をし、恵は小学六年生、てる子は小学五年生でした。恵は学校の担任に転向することを伝えました。すると先生は転校手続きのためにどこに行くのかと聞きます。恵が「どこに行くか決まってへん」と言うと、先生は「お前の親はバカと違うか」と言ったそうです。
かわいそうに、先生にそんなことを言われた恵は帰ってきて父にこう言いました。
「お父ちゃんが神様の声、聞いたんか。そんなら僕だって聞くわ」
その後声色を変えて「今治におれ」と言います(神様の声のつもりです)。
そして目に涙をいっぱい溜めて言うのです。
「お父ちゃん、勝手すぎるわ……」
すかさず、てる子も参戦します。
「子どもの意見も聞かず、そんなら子ども生まなんだらよかったんや。こんな無茶な話あらへんわ」
保郎は答えます。
「アブラハムは神様の声を聞いて、家の人みんなを連れていったんやで」
すると恵が「アブラハム、その時、子どもおらんかった!」(よく言った、恵!)
しかし、保郎はさらに言います。
「モーセは妻と子どもをろばに乗せていったぞ。ええか、無茶なんはお父ちゃんちがう。神様や。お前ら神様にそんなこと言ってええのか。お父ちゃんだって苦しいんやぞ」
ここで、皆根負けです。
気の優しい恵が「もうやめとこ。お父ちゃんの悲しそうな顔見てたら、かわいそうや」と言いました。
てる子は「お父ちゃん、泣きよる。やったあ!」と(我が家は女の子のほうが強いんです)。
ここを読むと笑えて、泣けてきます。そして福岡から旭川に一年の研修で来ていた2006年の秋のことを思い出します。私たちは大学の先生の家という安定した境遇を捨てて、定収入ゼロになる道を選ぶかどうか、思案していました。無茶を言う神さまがそうおっしゃるからです。怖くて不安でたまらない状況でしたが、しばらくの日数、夫婦で祈り聖書を読んで話し合って、「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちにどんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。(使徒13章41節)」という言葉を杖に、福岡女学院大学を辞めて、新しい旅を始めようと決心しました。が、やはりそのとき、子どもたちの抵抗に会いました。上の二人の子たちは言いました。
「一年経ったら、福岡に帰るって言ったじゃない?」
「だましたな!」
私たちが「神さまがどうおっしゃるか、あなたたちもお祈りしてみなさい」と言うと、
「そんなこと言って、私たちが祈ったって『神さまがこう言った』とか言って、パパとママで勝手に決めるくせに!」
流石はクリスチャンホームの子ども!と思いました。三番目の子はこう言いました。
「パパ、うちはホームレスになるの?」
和子さんはこのエピソードを紹介した後、こう書いています。
保郎は、決して揺らぐことのない固い決心をしながらも、私や子どもたちの言葉を聞いて、涙を流していたのです。神様からの語りかけに、人間的な思いを捨て、痛みながらも従おうとする保郎の姿を見ました。
7月27日、今日は榎本保郎の命日です。1977年ロサンゼルスで召されました。今治教会を辞してわずかに二年余りでした。二日前の25日、病室には保郎の妹の松代さんと弟の寿郎さんが和子さんと一緒にベッドを囲み、保郎に手を置いて祈っていました。そのとき、突然「シュシュシュシュシュッ」という異様な音がして、まばゆい光がベッドの上を走り、吊るされていたリンゲルに当ってカチッと音をたてました。保郎は低いうなり声をあげました。三人は互いに顔を見合せ「今の音聞いた?光を見た?」と言い合いました。和子さんは保郎が癒される徴ではと思いましたが、松代さんはその後、窓の外を見て悟りました。兄の魂はイエスさまに連れられていったのだと。満天の星空のなか、大きな光の玉とそれを追いかけるように飛んでゆく小さい赤い玉を見たからです。翌々日7月27日、52歳で保郎は天に帰っていきました。
どうぞ以下のものをお読みください。
『ちいろばの女房』 榎本和子 フォレストブックス
『聴くこと祈ること』 榎本保郎 いのちのことば社
『ちいろば先生物語』 三浦綾子 集英社文庫 ほか
※写真は上から2016年滋賀での三浦綾子読書会全国大会の時に講演する榎本和子さん。二番目はアシュラムセンターに掲げられた額。下はカンパニュラ(四季彩の丘で撮影)。花言葉は「感謝」「誠実」。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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