Go To お花畑 ― 美瑛四季彩の丘

 美瑛町のJR美馬牛駅から美馬牛小学校の前を通って南東に徒歩で25分ほどのところに展望花畑四季彩の丘があります。駅から丘まで畑や野の草も楽しみながら、ゆっくりと往還して来ました。

   「丘のまち」と言われる北海道美瑛町ですが、傾斜のきつい丘陵地帯は農業にとって必ずしも望ましい条件ではありません。しかし、その風土の中で農家が作り上げてきた農業景観が北海道を代表する観光スポットになっています。その美瑛でも最も観光客の集まる「四季彩の丘」を経営するのは、農場を経営する熊谷留夫(くまがいとめお)さん、63歳です。※上の写真は美馬牛小学校。

   四季彩の丘は99年から着手し、2001年にオープン。すべて熊谷さんが一人で始めました。14haの畑に、春にチューリップ、夏にクレオメやリアトリス、ラベンダー、秋にはキカラシが咲き乱れる展望花畑と、農産物直売所、レストラン、アルパカ牧場などがあります。

   美瑛町農業協同組合の理事を務める熊谷さんは、最初農協にその開設を何度も働きかけましたが、理解は得られませんでした。
   「そんなに儲かると言うのなら、熊谷さんがやればいいじゃないか」
   その言葉で踏ん切りがついた熊谷さんは、一人で取り組むことにしました。購入していた7haの丘の畑は強い粘土で傾斜もきつく、農業をするには不適な場所。でも、十勝連山を背景に色とりどりの花を植えた丘の畑であれば、素晴らしいパノラマを作り出せると夢を描きました。粘土がきついと播いた花はすぐに枯れてしまいます。そのため大量の客土もしました。培養土を手に入れるため、山も買うことにもなりました。育苗のためのハウスを建て、花栽培の技術に長けたスタッフに入ってもらって現在の素晴らしい花畑が実現してゆきました。そして2007年、四季彩の丘は日本観光協会が主催する「花の観光地づくり大賞」に選ばれました。


   こうして花作りの経験などない熊谷さんの手によって始まった四季彩の丘は、入場料を取りません。維持管理のための協力を呼びかける募金箱があるだけです。費用は地元農産物やグッズの販売とレストランの売り上げでまかなわれています。

   売店で売る農産物やレストランの食材は徹底的に美瑛産にこだわっています。ジャガイモや小麦粉やトウモロコシは熊谷さんの農場で生産したもの。ソフトクリームなどの乳製品もトマトもアスパラガスも、美瑛以外の地域から仕入れて売るようなことはしないそうです。

   四季彩の丘の年間来場者数は80万人。美瑛の観光は夏がメインで冬季間は休業するところが多いのですが、四季彩の丘には冬の間も多くのお客さんが訪れます。熊谷さん自身がスノーモービルの全国競技会で4回もチャンピオンになるという人だけに、雪の十勝連山を遠望する雪原をスノーモービルで走る人々が訪れるのです。

   地元の美瑛高校農業科を卒業し就農してほど経たない頃、熊谷さんは冬の仕事として、請負で郵便配達をしました。当時の美瑛は除雪も不十分だったため、スノーモービルで配達を始めたのがスノーモービルとの出会いでした。スノーモービルの楽しさに魅せられ、レースに参加したら優勝してしまい、全国に行くようになって、各地の民宿に泊まった体験がペンションを始めるきっかけになりました。四季彩の丘を始める約10年前の92年、上川地区で初めての農家ペンション「ウィズユー」を開業しました。これも実現までには大きな困難がありましたが、その後は跡を追うように農家民宿や直売所ができ、その相乗効果で美瑛の丘はますます人気を集めるようになっていきました。私も福岡時代に学生を連れて文学散歩旅行をしたとき、泊まろうと思って電話したことがありますが、予約で埋まっていて(こちらの人数が多めだったのもあり)泊まれなかったのを憶えています。※下の写真がウィズユー

   体も小さく子供時代は病弱だった熊谷さんは、スノーモービルをやるようになって自信を持つようになりました。努力すれば結果は出るのだな、と思ったし、自分の人生が変わったと言います。

   美瑛の人々の意識にも変化が起きてきました。最初は遠巻きに眺めていた農業関係者たちも新聞やテレビが四季彩の丘を取り上げ、観光客が増えるようになると、感謝してくれるようにもなりました。※上の写真は四季彩の丘最奥からの眺望

   熊谷さんが大事にしている言葉があります。それは中学校の先生が卒業の時に贈ってくれた言葉です。
   「過去の結果が現在であり、現在の一日一日が未来につながる」
   その言葉が熊谷さんを勇気づけ、熊谷さんの信念にもなっていきました。

※写真は上が沼崎農場踏切から見た美馬牛駅で向こうが上富良野、手前が旭川側、沼崎重平彰徳碑は駅の右になります。下は同踏切近くにある製粉所、美馬牛駅ホームのひまわりの下に咲いていたビオラ。

 

 

 

 

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。