箕作阮甫と城下町津山

   『海嶺』は、天保時代三人の日本人漂流民が世界初の聖書和訳に携わっていく数奇な物語を書いた三浦綾子さんの歴史長篇小説ですが、この本の巻末に付された参考文献一覧の中に「箕作阮甫と聖書」(柴本丈夫)という文書名があります。この箕作阮甫(みつくりげんぽ)は幕末の蘭学者で津山(現・岡山県津山市)の人でした。2020年10月11日、津山市を訪ね旧出雲街道沿いにある旧宅などを見学しました。

   箕作阮甫(寛政11年1799-文久3年1863)は、今の岡山県津山市、当時の美作国津山西新町で町医師を営む家に生まれました。箕作家は祖父の代から医師を始め、父貞固の代からは津山松平藩の藩医に取立てられましたが、阮甫は父、兄を早くなくし幼くして家督を継ぐことになります。若くして家運を背負って京都に出て医学を学んだ後、津山に帰って開業、高五十石御小姓組御匙代となりました。そして1823年には藩主に伴って江戸に行った阮甫は、津山藩医宇田川玄真の門下で蘭学の研さんを重ね、一旦は津山に帰りますが、1931年には家族と共に江戸に住むようになりました。
   その後、語学の才能を生かして蘭学や洋学を学んだ阮甫は、1839年には幕府天文台翻訳員(「蕃書和解御用」)を命じられ、それを機会に翻訳の仕事に専念するようになってゆきます。阮甫はペリー来航時には米大統領国書を翻訳、またロシア使節プチャーチンが長崎に来航したときも、対露交渉団の一員として長崎に出向きました。やがて蕃書調所の首席教授に任ぜられ、1862年には洋学をもって初めて幕臣(旗本直参)に取立てられましたが、翌1863年江戸湯島天神で亡くなりました。蕃書調所は後の東京帝国大学であるため、阮甫は日本で最初の大学教授とも言われています。
   阮甫は少年時の怪我のために右ひじに障害があり、一生の間食事には匙を使ったようですが、そういうなかで為した仕事は、日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』、『産科簡明』、『和蘭文典』、『八紘通誌』、『水蒸船説略』、『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたり、彼の子孫にも有名な学者が多くいます。


   阮甫は洋学を学ぶに当たり、西洋文明の背後にあるキリスト教にも関心を持ち、キリシタン禁制の時代に漢訳聖書を学んでいたと言われています。阮甫の生まれた津山は明治以降、キリスト教が盛んになり、内村鑑三も何度か訪れるなどキリスト教を受容する風土があったようです。津山に来た内村鑑三は法然上人(美作国久米:現津山市の隣の久米南町出身)をとても尊敬していましたが、法然は渡来人秦氏の末裔であり、秦氏は原始キリスト教信仰を持つ一族だったとも言われています。
   アメリカ合衆国の会衆派教会の牧師イライジャ・コールマン・ブリッジマン(Elijah Coleman Bridgman, 1801年- 1861年)は、はじめてアメリカ合衆国から中国に派遣されたプロテスタントの宣教師でした。新約聖書の翻訳(漢訳)に参画したほか、英語の月刊誌『Chinese Repository』を創刊し、中国語(漢文)でアメリカ合衆国を紹介した書物は、日本にも輸入されて箕作阮甫によって『聯邦志略』の題で出版され、日本人がアメリカ合衆国を理解するために貢献しました。阮甫はこのブリッジマンの漢訳聖書を読んだかと思われます。
   『海嶺』に書かれたギュツラフ訳も含め、聖書の波が東アジアと日本に近づいていた時代だったことが分かります。

   箕作阮甫旧宅のすぐ横には津山洋学資料館があり、阮甫が師事した宇田川玄真や、その養子の宇田川榕菴ほか津山が生み出した多くの洋学者について紹介する資料が展示されています。
   津山藩医宇田川榕菴は西欧の近代科学を日本に紹介した人でもあり、現在の日本語でも頻繁に用いられる「外皮」「花粉」「雄蕊」「繊維」「細胞」「酸素」「水素」「窒素」「物質」「還元」「元素」「酸化」などの術語を苦心して造語しました。オランダ語のKOFFIE(コーヒー)に「珈琲」の字を当てたのも榕菴でした。
   この津山洋学資料館の庭には薬草類も植えられて、お土産ショップ+カフェ“和蘭堂”もあります。葡萄盛は地元産のシャインマスカット、ニューピオーネ、クインニーナ。どれも美味でした。ご当地スイーツの“津山ロール”も市内の菓子店がコラボしてそれぞれの味を競っています。

   津山は津山松平藩の城下町で、お城のある鶴山公園は岡山県でも最も有名な桜の名所のひとつです。岡山県の三大河川に数えられる吉井川が市内を流れ、かつては交通手段として用いられていた高瀬舟の発着場も残る歴史の香りのする落ち着いたたたずまいの町です。街中を通る旧出雲街道は歴史的街並みが保存されていて、往古の風情があります。

   10月11日は日曜日、午後の観光の前、午前中は津山市にあります聖イエス会青葉教会の礼拝に参加しました。牧師の高本聖二、さおり先生夫妻は一年半前まで同教団の旭川教会におられて、三浦綾子記念文学館でボランティアとして働いてくださり、三浦綾子読書会の活動にも参加くださっていた方々でした。それで、私は岡山県の実家に帰るときお寄りしたく思いながら、過ごしていたところ、コロナのおかげで空白の日曜日が与えられて、兄が車で片道二時間を共にしてくれて、再会ゆるされたのでした。全国を廻る楽しみのひとつは、こんな再会の喜びと、そしてそこにも三浦綾子読書会が始まるようにと、アシストすることです。

   この日はコロナのために、短い礼拝でしたが、心静まって、創世記のノアをめぐるお話を、人類の現在の状況と問題を重ね合わせつつ聴かせていただき、感謝でした。お昼前、お若いお二人の先生方のお働きとご健康の祝福を祈りつつお別れし、兄が知っていたB級グルメの有名店に向かいました。教会の前庭には、聖イエス会のあちこちの教会にあるように、アンネ・フランクの薔薇が咲いていました。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。