墨を流せばそれでいいのです。― 丸木位里

   1995年10月19日(木)三浦綾子は丸木位里の死に際し、「丸木位里氏逝く。尊い一生であった。人間一人の生き方が、こんなにも多くの人に影響を与えていることを、私たちはもっと真剣に考えてみなければならない」(『夕映えの旅人』p62)と書いています。享年94歳でした。

   丸木位里は1901年、広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)で太田川の船宿を営む家に生まれました。臨月の頃、母が船宿の2階から客の食膳を下げる際に階段から転落したことで、位里の顔の右側には大きな痣ができました。このことで息子に負い目を感じた母は、位里の生き方に干渉せず、一切を本人の自由に任せることにしました。位里はそのことを終生感謝していました。成長した位里は18歳で大阪へ、更に上京して田中頼璋・川端龍子に師事。日本南画院、青龍社に参加して、1939年から1946年まで美術文化協会展に出品し、1941年には、北海道雨竜郡秩父別出身の洋画家赤松俊子(丸木俊)と結婚しました。
   1945年8月広島に原爆が投下されると、広島市(郊外の三滝)の父母の安否を気遣った位里は、疎開していた埼玉県浦和市を離れ、妻の俊とともに被爆数日後の広島に赴き救援活動に参加しました。この体験をもとに1950年、俊との共作『八月六日』(のち『原爆の図』第一部〈幽霊〉)を発表し、絵本『ピカドン』も刊行。以後、夫婦共同制作で《原爆の図》の制作に取り組み、30年以上の歳月をかけて15部の連作を完成しました。
   二人とも戦前からプロの画家であり、丸木位里は水墨画家、妻の俊は油彩画家と本のイラストレーターとして活躍していましたが、戦後は共作してゆきました。時には互いの作品の上に直接描き加えるスタイルでコラボレーションしながら、各自のスタイルを超える複雑で重奏な、迫力ある作品を作り出してゆきました。
   1966年には、埼玉県東松山市に移住し、翌年、自宅近くに「原爆の図丸木美術館」を設立。『原爆の図』以外に、『水俣の図』、『南京大虐殺の図』等の作品を妻との共作で制作しました。
   1970年代にアメリカで初めて作品を展示した時の経験は彼らの芸術に大きな影響を与えることになりました。アメリカ人の鑑賞者から、なぜ 広島ばかり描き、日本が戦中に行った非業に触れないのかという質問を受けたのです。この後の丸木夫妻の視点の拡大は、二つの方向で表現されてゆきました。一つは、原爆経験の複雑さの描写です。1972年に制作された「からす」には、 原爆投下後の広島で朝鮮人が日本人から受けた差別が描かれています。日本人も朝鮮人も共に悲惨な経験をしたにも関わらず続いた差別でした。もう一つは、広島原爆以外の戦争の悲惨さを作品にし始めたことです。例えば、1975年制作の「南京大虐殺の図」は、旧日本軍人の証言に基づいて、日本人の中国人に対する殺傷や暴行を描いています。
   しかし、彼らにとって戦争が唯一無二の主題だったのではなく、痛められたいのちの声を聴くことが核心だったのだと思います。だから、彼らの心が水俣へと向くのも自然なことだったのです。
   これらの圧倒的に重要な作品群が、夫妻で制作するというスタイルで産み出されてゆきましたが、丸木位里単独の作品(日本画)では牛をモチーフとした一連の作品(「群牛」)が知られています。1995年には妻の俊とともにノーベル平和賞候補に推薦されました。 
   では、この丸木位里と俊は、どんな夫婦だったのでしょう。あるとき、俊さんが二人の関係について、こんな風に語っています。

「みなさん、位里と私のことをおしどり夫婦だとおっしゃる。でも本当は仇敵同士。原爆の図を二人で三十年近く描いてきたけれど、彼は日本画、私は洋画。手法の違う二人が共同制作をするのだから当然ぶつかり合うものがある。絵のほうは歳月を重ねるうちに、日本画、洋画を融合させた新分野を作り出していくことができた。   
   でも、位里の女性観は終始一貫変わらなかった。位里は絵かきであり続けたが、私は家事や生活費稼ぎに時間を取られすぎた。私が絵に打ち込みすぎると、位里はぐんと遠ざかる。そして必ず女の影がちらつく。若くして夫に死別した三岸節子さんを、うらやましいと思ったことが何回かあった」

   でもこうして語ることが出来るのも、“手法の違う仇敵同士”、自由でありつつ相互を尊敬し、しかし闘い続けるクリエイティビティのいのちがあってこそ、なのだと思わされます。こう語る妻の横で、位里が微笑んでいるのが見えるようです。妻としては夫に従いつつ、書き手としては“独裁者”であった綾子さんの夫婦関係とは、一見全く違うのですが、違うのはほんのわずかで、後はとても良く似ていたようにも思えます。

   今私の手元に、丸木夫妻の絵本『みなまた 海のこえ』(文:石牟礼道子・小峰書店・1982年・小学館絵画賞受賞)があります。

      しゅうりりえんえん  しゅうりりえんえん

   この絵本で終始、基調低音のように繰り返される、狐のおぎんの言葉です。呪文であり祈りであり悲しみの歌であるようです。一年に数日だけ、土地が彼岸花を咲かせるように、この地謡の中から、美しい海が汚滅され愛しいいのちが殺されてゆく物語は血を噴くように湧き出しています。あとがきで、石牟礼道子さんは、不知火海の渚に生い育つ植物に心寄せながら、こう書いています。

   そのような樹や草の姿は遠い昔、わたしたちが海から生まれた生命であることを思わせます。毒を吸ってはいますが、海は原初そのものです。この海を鏡にして覗いてみれば、実に意味深い社会の姿が写しだされてきます。意味を解きしらせてくれるのは、死者たちや苦悶の極で今も生き残り、生き返ろうとしている人々です。

   続いて丸木俊さんは、あとがきに、こう書いています。

   いま、美しかった太陽の島、にほんは、ほんとうにきれいでよかったにほんに戻れるのだろうか。いま、子どもや鳥やきつねは幸せなのだろうか。そういうことが、みんな描けただろうか。

   これらを読むと石牟礼さんと俊さんが、“回復”への祈りでつながっていることが分かります。20年近く前の絵本ですが、マイクロプラスチックと人工化学物質に南極の海までも汚染された現在、益々重要な絵本だと思わされます。
   こういうとき、位里よりも、俊さんの方が前に出て語ることが多かったようなのですが、勿論夫婦が別々な方向を向いていたわけではありません。
   「私たちは、暗く、残酷で、苦痛な場面を描く。しかし、どうやってそこに存在する人間を描くか?私たちは美をもって描写したかった」と俊さんは語りました。それに対して、位里の有名な言葉「絵はかいてはいけません。墨を流せばそれでいいのです」は、シュールレアリスム的手法のことを言っているようでいて、そればかりでなく、“美”を描く裏で、彼が墨と共に流したものについて言っているように、私には聞こえてくるのです。だから、彼が流した墨の滲みが一番彼の本当を語っているのかも知れません。      ※参考:Wikipedia、原爆の図 丸木美術館ホームページ、ほか

 

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。