貧しさ ー マザー・テレサのこころ

   9月5日はマザー・テレサの命日です。1997年でした。
   マザー・テレサ(本名アグネス=ゴンジャ・ボワジュは1910年8月27日、現マケドニア共和国・スコピエのアルバニア人商家に生まれました。1928年9月に18歳でアイルランドのロレット修道会の修道女となり、教会の派遣事業でインドに渡りました。カルカッタにあるロレット修道会の附属女子高校で歴史や地理などを約20年間教え、学校長にもなりました。シスター・テレサはそこで働きながらも、修道院の塀の外には、みすぼらしい小屋に住んでいる人々が沢山生活していることを知りました。彼女は、修道院の頑丈な塀の中で、ひっそりと平穏な日々を過ごすこともできたのです。しかしシスター・テレサは、イエスの言葉を額面通りに受け取る数少ない人間の一人でした。彼女が読んだ聖書の言葉は、彼女自身に語りかけているとしか思えなかったのです。それは、「あなた方によく言っておく。わたしの最も小さな兄弟姉妹の一人にしてくれたことは、わたしにしてくれたことである」(マタイ25・40)でした。
   シスター・テレサは1946年9月、「神からの呼声」を聞き、自分の生涯を捧げるべき仕事が何であるかを悟りました。ダージリンヘ向う汽車の中で、シスター・テレサは祈りのうちに、貧しい人たちへの奉仕を決意します。そして、1950年に「神の愛の宣教者会」(ミショナリーズーオブーチャリティ)を設立します。「神の愛の宣教者たち」つまり、「貧民街で神の愛を伝えるメッセンジャーたち。私たちは、それ以外の何者でもなかったのです」最初にシスター・テレサの目に入ったもの、それは産み捨てられた孤児たちで、彼らを育てることから仕事は始まりました。こういう子どもたちを公園から連れてきて、衛生的に生きるための基本的習慣を教え、アルファペットを覚えさせました。マザーは語りました。「何をするかと決める計画などはありませんでした。苦しんでいる人々が私たちを必要としている、と感じた時、それに対処したにすぎません。神さまは、いつも、何をするべきかを教えてくださいました。」マザー・テレサの目的は、はっきりしていました。貧しい人々のうちにイエスを見、その人たちを愛し、その人たちに仕えること。そして、そのための方法や手段はいつも、神のみ手に委ねていたのです。
   ある日のこと、マザー・テレサは、歩道で死にかけている女性を見つけました。彼女の苦しみを和らげ、ベッドで心静かに、人間らしく死なせてやりたいと思って、女性を連れて帰ったのですが、この愛の行為をきっかけとして、マザー・テレサは、1952年8月に「清い心の家」(ニルマル・ヒリダイ)とも呼ばれる「死を待つ人の家」を開設することになりました。彼女はこう語っています。

   私は自分の心の中に、死にゆく人々の最後のまなざしをいつも留めています。そして私は、この世で役立たずのように見えた人々が、その最も大切な瞬間、死を迎える時に、愛されたと感じながら、この世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです。

   マザー・テレサはその後、誰にもかまってもらえない子どもたちの世話をすることになりますが、その大部分は、間もなく死を迎えるためにニルマル・ヒリダイに入所した人たちの子どもでした。これらの子どもたちの惨めな状況を改善するために設けられたのが、シシュ・ババンで、このようなホームは、やがてインド国外においても、神の愛の宣教者たちが設立してゆく子どもたちのための一連のホームの最初のものとなりました。その後もシスターたちは、ハンセン病者、エイズ患者、未婚の母たちのホームを数多く作りました。
 1979年には、その献身的な奉仕活動が認められてノーベル平和賞を受賞しました。 やがてその活動は世界各地に広がり、82年レバノン内戦では砲弾の中、西ベイルートの病院にとり残されている子供たちを救出し、84年には飢えに苦しんでいるアフリカのエチオピアを訪問し、さらに87年には旧ソ連を訪問してチェルノブイリ原子力発電所の事故の避難民たちを励ましました。
 マザー・テレサは日本にも81、82、84年と三度訪れており、被爆地の広島市や、労働者らの集まっている東京の山谷地区や大阪市西成区のあいりん地区にも足を運びました。1997年9月5日召天。マザー・テレサは彼女の働きに感動してカルカッタに行きたいという人には、いつもこう言いました。
   “あなたがたの周囲にあるカルカッタで働く人になって下さい。”

   マザー・テレサはノーベル平和賞の授賞式で「私は受賞に値しませんが、世界の最も貧しい人たちに代わって賞を受けました」と語りました。貧しい人、あるいは貧しさについて、マザー・テレサが語った言葉を読んでみましょう。

   貧しい人々は偉大です!貧しい人々はすばらしい人々です!貧しい人々は非常に寛大な心を持っています!彼らは、私たちが与える以上のものを、私たちに与えてくれるのです。  

   貧しい人々が持てるものを惜しみなく分け合う姿を多く見て来た彼女はこう語っています。

 持ち物が少なければ少ないほど、多く与えることができます。矛盾としか思えないでしょう。でもこれが愛の論理なのですよ。    

   では、貧しい人々が彼女に与えてくれたものとは何でしょう。「世界のどこでも貧しい人々は苦しんでおられるキリストご自身であり、貧しい人々の中で神の子は生き、かつ死んでおられる」のだとマザー・テレサは繰り返し語りました。つまり貧しい人々は、私たちに最も尊いもの、キリストのみ顔を示してくれるのです。                     

 貧しい人が飢えで死んだ場合、それを神様のせいにしてはなりません。あなたや私がその人が必要としていたものを与えようとしなかったからなのです。つまり、私たちが神さまの愛を伝えるみ手の道具になろうとせず、パンの一切れを与えることなく、寒さから守ってやる衣服を与えようとしなかった結果なのです。キリストが、寒さに凍え、飢えで死にかけた人の姿をとって再びこの世に来給うたこと、淋しさに打ちひしがれた人の姿、温かい家庭を求めてさまよう子どもの姿をとって来給うたことに気づかなかった結果なのです。                                                                 
 イエスは私たちに逢いにいらっしゃいます。イエスを歓迎するために、私たちの方から進んでお出迎えに行きましょう。
 イエスは私たちのもとに飢えた人の姿、裸の姿、淋しい人の姿、アルコール依存者、麻薬中毒者、売春婦、路上の物乞いの姿でおいでになります。誰からも構われない淋しい父親、母親、男の人、女の人の姿でいらっしゃることがあるかも知れません。もしも私たちが、その人たちを見殺しにするなら、手を差しのべないなら、それはイエスその方を見殺しにしたことになるのです。                

 貧しい人々が最も求めているのは、憐れみでなく愛です。死のうとしている彼らにとって一番の問題は、栄養の貧しさや健康の貧しさや経済の貧しさよりも、愛の貧しさ、尊厳が尊ばれることの貧しさだからです。“あなたはゴミじゃない、あなたは尊い人”と語りかけて、そのことを実感として体験して欲しいという思いで、彼女たちは「死を待つ人の家」を営みました。そして朝毎にミサをして、「さあ、イエスさまをお連れしに参りましょう」と言って路傍に打ち捨てられている人を探しに出て行ったのです。
   「苦しんでいる人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」という言葉を掲げてはいるけれど、そのような人のところに自ら出て行こうとはしない私たちの多くの教会のことを思います。

   マザー・テレサは、私たちに、こう勧めてくれています。                   

 飽くことなく与え続けてください。しかし残り物を与えないでください。痛みを感じるまでに、自分が傷つくほどに与えつくしてください。                                                                                            

 傲慢さは、すべてを壊してしまいます。イエスのように生きる秘訣は、心の柔和で謙遜な人になることです。                         

  マザー・テレサの勧めの中心は、貧しいキリストにならうこと、と言えるでしょう。クリスチャンは「貧しいものは幸いです」という言葉を知っています。でも多くの場合「心の貧しいものは幸いです」という言葉の方を好みます。懐を探られたり、心以外の貧しさに導かれたりしたくないからです。「貧しいしもべである私」と祈りながら、多くのクリスチャンが高価なものや贅沢な暮らしを手放すことが出来ないでいます。果ては見つめ合う時間も微笑み合う余裕もない忙しい生活と心を開けない淋しさの中で、車をもう一台持ちたいために、お腹に出来た子どもに生まれてほしくないという“貧しさ”に陥ることさえあるのです(この世でイエスを喜んで迎え、その神の子であることを知った最初の人はまだ母親の胎内に居た胎児の洗礼者ヨハネだったのです。神が胎児を選ばれたのです、と彼女は言います)。マザー・テレサはいわゆる先進国では、このような貧しさを問い続けました。

  マザー・テレサの最終的な勧めはこれです。

   死の瞬間、私たちが裁かれるのは、自分の事業の数によってでもなければ、一生の間に手に入れた資格によってでもありません。私たちは、どれだけの愛をこめて仕事をしたかによって裁かれるのです。                    

   1997年9月13日にインド政府による国葬で葬儀が行われましたが、その様子は世界中に実況中継されました。ちょうど私は三浦綾子の研究を始めて三年目で、福岡女学院の学生さんを連れて北海道にゼミ研修旅行に来ていました。旭川駅前の藤田観光ワシントンホテルに泊まっていて、夜中のテレビで葬儀を見たのを覚えています。
   マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞したというニュースが世界を駆け巡ったとき、三浦綾子さんは『青い棘』に取り組んでいました。まさに戦争も平和も家庭で始まるものであることを書いた代表的作品で、戦争の時代と現代の家庭とを結んだ巧みな構成の深い物語ですが、タイトルである“青い棘”が示す“小さきものへの暴虐をなす自己中心の罪”には、マザー・テレサの“貧しさ”の思想との共鳴があると見ることができます。

   世界中の飛行機を只で乗ることが出来たマザー・テレサ。一年に五十回も飛行機に乗って飛び回っている私には、うらやましい限りですが、私はそれだけのことをしていないのだから仕方ありません。彼女のようになりたければ、まさに彼女のようにならなければならないのです。

※参考文献『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』 ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編・渡辺和子訳・PHP ほか

 

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。