津波を最初に受け止めたもの ー 震災遺構中浜小学校

   東日本大震災の津波で被災した宮城県山元町の海岸近くで、震災遺構中浜小学校の整備工事が進められていました。
   今日は、仙台空港に着いてすぐ、車でお迎えくださった仙台めぐみ教会の魚本マーレー先生と共に山元町にある教会「のぞみセンター」(ラウワ・スチュアート宣教師)を訪問しました。ここは2012年に三浦綾子さんの本を贈呈して以来でしたが、当時は床の張り替え中だったのが、きれいになって今日はケーキを作る会?をなさっていました。明るく清潔な会堂の本棚には私たちが差し上げた本を含む30冊あまりの三浦綾子さんの本が並んでいて、他にもいただける本があれば欲しいですと言ってくださいました。
   その後、魚本先生が中浜小学校にもお連れくださいました。

   写真中央二階の廂のすぐ下に青い表示があるのが見えるでしょうか?15時45分の第一波以降数波、最大10メートルの高さの津波がこの地を襲いました。先生方は警報が出て即座に指定避難場所である1・2キロ先の坂元中学校に逃げるのは無理と判断、二階の窓も塞いで子どもたちが津波を見ないようにさせ、屋上階の部屋に誘導避難させて子どもたち守りました。体育館南東側では二階が窓枠ごと飛ばされました。二階のギャラリーに避難していたら大惨事になるところでした。そして、子どもたちと先生方、保護者、地域住民約90人がそこであの3・11の夜を過ごしました。
   翌朝、屋上で手を振る子どもたちに気づいた自衛隊のヘリコプターが救助に来ました。結果、この学校では一人の犠牲者も出ませんでした。そのヘリコプターの着陸位置の近くに丘を築き日時計のモニュメント(上の写真手前・津波襲来の時刻を指しています)を置きました。

   柱に巻きついた鉄骨は、元からここにあったものではなく、流れてきたものです。校庭にあった野球のバックネットか物置小屋の一部かと思われます。津波の威力や流れの方向を知る手掛かりとなる痕跡であると共に、津波が様々な物を巻き込みながら襲ってくることをありありと証言しています。

   津波を受けた海の側面です。校舎は津波を想定して海に対して直角に(横向きに)建てられています。誰がどんな意図でしたデザインなのでしょう。この学校の外階段にはこの十字架の形が付されていました。あの日、津波を一番に受け止めたのがこの階段でした。多分偶然だと思いますが、屋根や壁の色など、私が働いていたミッションスクールの校舎(ヴォーリズ建築事務所設計)に似た雰囲気の建物でした。
   震災遺構中浜小学校は今年9月26日土曜日から一般公開の予定です。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。