「ここからでも海は見えるよ」と言って彼は黙った。― 斜里の海で ②

   西中一郎は三浦綾子と同い年で、ミスター北海道に担ぎ出されようかというハンサムだったと『道ありき』には書かれています。「西中一郎」は仮名ですが、八年ほど前、私は斜里で関係の方に助けていただきながら辿りついて、この方が札幌に生きておられることを知り、一度だけお会いしました。九十歳で奥さまと二人閑静な住宅に住んでおられたその方は、人柄の深みを感じさせられる、本当に「堀の深い美しい」方でした。
   さて、1949年の6月、堀田綾子はこの西中家に泊まって、夜中の12時の時計が鳴り終えるまで布団の中に息をひそめ、それから玄関の戸を開けて、一人で真っ暗な夜の中に出て行きました。ハイヒールで坂をどんどん降りてゆき、浜に出ると時おり軽石に足を取られて転びそうになりながら、とうとう暗い海の中に入りました。ところがそのとき、彼女は後から駈けて来た人に肩をつかまれていました。
   それは西中一郎でした。彼は何も言わずに背中を差し出しました。綾子は素直に背負われて、「夜の海が見たかったの」と言い訳を言いました。彼は、それには応えず綾子を背負って砂山に登り、「ここからでも海は見えるよ」と言って、真っ暗な見えない海をしばらく一緒に眺めてくれました。ざぶんざぶんと波の音が闇の中に聞こえるばかりでした。


   そして、翌朝その人は、頬に涙の跡を見せながらも、何も言わず、また会う人のように、斜里の駅で手を振って別れてくれました。『道ありき』には、この人の背中に背負われた時「不意に、わたしの体から死神が離れたよう」だったと書かれています。綾子の人生の中でも最も危険な暗い海で、彼女を救った人。すべてを知っていて何も言わず、与えて、与えて、彼女の命を守り、そして声も立てずに涙をひとすじ流し、送り出してくれる人でした。彼はクリスチャンではありませんでした。しかし、愛のひとつのあり方を、神の愛の一つの側面を現わしていたのだと思います。


   その時は、綾子は気づかなかったかもしれません。しかし、前川正の背後にいるかもしれない神に向かって本当に求め叫んでいた彼女の心の声に対する答えは、ここにももう訪れ始めていました。もう歩くこともできなくなった者を背負って歩いてくださる方がいる。「あなたが辛くて死んでしまいたい夜に、もう歩けない真っ暗な波の中で、私はあなたを背負って歩く用意があるよ。だから私の背中に背負われなさい」と語りかける存在が。そしてあの索漠たる絶望の砂の上で隣にいて下さっていた方は誰だったのだろう?死のうと思い定めて海に入った私の肩を掴んで下さったあの手、それはどなたの手だったのだろか?堀田綾子にはそれは分からなかったでしょう。しかし、15年余り後『道ありき』を書いている作家三浦綾子はそのことを分かって書いているのです。

  ※写真は上から旧斜里町役場だった旧図書館(旧市街の丘の上にある)、図書館のある丘から海へ向かう坂道(ここを綾子さんが降りたかどうかは不明)、釧網線から見えるオホーツク海の浜辺、斜里の浜の砂山に咲くハマヒルガオ。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。