シオン、彼は君の名前を呼ぶ

      シオン、彼は君の名前を呼ぶ


広い広い南の海を指さしている岬の町。
その波光のさんざめきのなかに、君が生まれたとき、
君は両親から、「シオン」という名前をもらった。
それは君に与えられた、君のための名前。
でも、それよりもずっとずっと前から、
彼は君の名前を呼んでいた。
「シオン」という音として現われる前の、「シオン」。
両親に名づけられる前から彼が呼んでいた、君の名前。
両親の耳は彼のささやきを聞いて、君に「シオン」という名前をつけた。
そしてその日、君の旅は始まった。

君が生まれる何億光年も前から、彼は君の名前を呼んでいた。
シオン。
君の名前は、世界のどんな名前よりも美しい。
永遠から永遠まで、
彼が呼ぶ名前、
彼が愛する名前だから。 
君の名前は、彼の遥かな愛。
君の名前は、彼の深い計画。
君の名前は、彼と一緒に歩く旅の目的地点。
いつも、いつも、彼はこの名前で、君を呼んだ。

君の名前は、シオン。
永遠から永遠まで。
そして、今もこの名前で、彼は、ほかの誰でもなく、君だけを呼んでいる。
君に会うために。

この名前でなく、彼が君を呼ぶこともある。
人よ、と。
あるいは、女よ、と。
あるいは、花嫁よ、と。
そして、あるいは、わが愛する者よ、と。
けれど、
シオン。
この名前は、確かに、君が彼と会う場所。
この名前を通って、彼は君のところに来る。
この名前は、君が家族や友達や恋人や、君自身と出会うための路でもあったけれど。

君が生まれる何億光年も前から、彼は君の名前を呼んでいた。
彼に名前を呼ばれながら、何億光年の彼方から君は呼び出され、
彼に名前を呼ばれながら、君はかたち作られた。
君の名前のなかで世界は始まり、……君の名前のなかで世界は終わる。
月も星も、君の名前の上で生まれ、
君のすべてが生まれ、
そして、宇宙の一切がそこに収まり閉じてゆく。

生まれたばかりの君は、泣き声いっぱいに彼を呼んだ。
彼は応えて、君の名前を呼んだ。
生まれたての皮膚で、彼の声を感じたとき、
君は、天使が飛ぶのを見つけたように、はじめて笑った。
けれど、
シオン。
彼に名前を呼ばれていることに、本当には気づかないままで、
君は乳を飲み、君の庭を歩き始めた。
そして少しずつ、
心のかたちを言葉に換えることを覚え、
心の色を歌にすることを覚え、
やがて、君は、人を愛することの苦しみめいた喜びも知って、 
ひとつの魂を抱えた人として成長していった。
そして、君が、
その名前の中に、自分一人しかいないということ、
その秘密の孤独に、めまいしたのはいつだったろう。

広い広い南の海へと出てゆく船。
その航跡が白い線を描く、港の見える丘の上。
朝の光に濡れた回廊を、後ろ手にしずかに歩いて、
幼い君は彼に会う百合の花の祈りの刻の中に座った。
ちいさな手を合わせて、彼に呼びかけることを知った君。
そのころには、
シオン。
彼が君の名前を呼んでいることを、君はもう知っていただろうか。
母さんも、父さんも、兄姉たちも、家族としての愛をこめて、朝ごとに、君の名前を呼んだだろう。
君を愛した人たちも、きっとそれぞれの思いをこめ、各々の声で、君の名前を呼んだだろう。
君の髪を撫でながら、あるいは遥かな距離の向うから、あるいは引き裂かれる胸の奥から……。
でも、一番たくさん、たくさん、君の名前を呼んだのは、彼。
君が涙を拭いもせず、裸足でほかの誰かの名前を、心いっぱいに叫んでいた日にも、
熱病の街の喧騒の中で、彼のことなんか忘れてしまって、思い出さなかった夜にも、
自分と自分の名前を捨ててしまいたいと、座り込んで泣いていた夕暮れにも、
いつも、いつも、いつも、いつも、いつも。
彼は、君の名前を呼んでいた。
君の魂の代わりに、
君の名前をその胸に抱きしめて。
誰よりも、誰よりも、優しい声で、
シオン。

生まれた日から、ずっと、君は君のなかの、
見えないところで彼を呼んでいたけれど、
君が生まれる何億光年も前から、彼は君の名前を呼んでいた。
彼が君の名前を呼んでいることに、君が本当に気づいたとき………。
それは、いつのことだったろう。
君の孤独なひとつの魂が、見えないものを見ようとし、聞こえないものを聴こうとし始めた日。
それとも、ひとりで痛む暗がりのなか、その痛みの一番奥にあるのが罪だと気づいて、死の棘に怯えた時だったろうか。
呼んでも呼んでも彼が応えてくれないと思った、木枯らしの吹くあの寒い夕暮れ。
あるいは、それよりももっと後の、嵐がすっかり過ぎ去った静かな早春の朝だったろうか。
「苦しみに会ったことは、私にとってよいことでした」
この詩の一行が、君の思いになり、
耳開かれて、君を呼ぶ彼の声を聞くことができた日は。

彼は君の名前を呼ぶ。
誰よりも、誰よりも、優しい声で、
シオン。
君を抱きしめて、慰め、癒すために。
君の手を取って、支え、みちびくために。
君を近くで見つめ、目覚めさせ、取り戻すために。
君が彼方から呼び出され生まれたことの意味を、君にささやくために。

彼が呼ぶ君の名前は、天から舞い降りた詩人の言葉が起こす奇蹟のよう。
彼は君の名前を呼びながら、世界を君のために創り変え、結び換える。
誰よりも、誰よりも、優しい声で、
シオン。
彼が君の名前を呼ぶとき、
ため息をつこうとしていた唇は、
君の名前のなかで、海流に磨かれゆく珊瑚になる。
それは、瑠璃色の熱帯魚たちが遊ぶ万華の海に生い育って、楽園を創り出す。
そして、
シオン。
君の名前を呼ぶ彼の声が、
この地に響き満ちるとき、
こぼれ落ちようとしていた涙は、
君の名前の上で、薄虹色のダイヤモンドになる。
それは、雨上がりの樹々の葉から無数に燦乱して、苺畑のちいさな実たちに夢を見させる。

シオン。
シオン。
彼が呼ぶ君の名前が、宇宙へと、溢れ流れ出す。
君の名前が呼ばれた瞬間から、物語は開幕する。
そのとき、暗がりを潜めていた瞳は、
君の名前の下で、冬の星座の瞬きを映し始める。
それは、漆黒に拡がる天の幕に彼の指で描かれたもの。
星の雫は子どもたちの屋根を飾る。

彼は、
君の名前を呼ぶ。
誰よりも、誰よりも、優しい声で、
シオン。
残照さえも埋葬してゆく黄昏の底、
こころを照らす、ちいさな灯をひとつ点し、
君と声を合わせて歌うために。
そして、
宝石のようにきらめく、果実のような言葉で、
夜更けまでも君と語り、
新しい朝の窓を君に開くために。
シオン。
燃える声で、
彼は君の名前を呼ぶ。

シオン。
君が生まれる何億光年も前から、彼は君の名前を呼んでいた。
彼が呼ぶその名前は、
永遠から永遠まで、君だけのもの。
どんなときにも、誰にも、奪われることのない、君だけのもの。
シオン。
それは君が君自身になるようにと、呼んでいる、彼の招き。
君の人生の目的。
シオン。
その名前は、旅する君の、日ごとの宿り。
旅のなかで、どうしても出会わなければならない人の名前。
迷いやすい君に与えられた道の光。
辿り着くべき旅の果て。

時に人は、自分でないものになりたいと思うけれど、
彼が呼ぶ君の名前は、
君を閉じ込めるものではなくて、
解き放ついのち。
君がシオンと呼ばれる君自身になる日を、彼は、どんなに楽しみに待っていることか。
「美しい人よ、立って出てきなさい。雨はやみ、春が来て、野に花は咲き始めている」
それは、君の人生の野へと、君を呼び出す彼の声。
心を静かにして、曇りなく聴くならば、
それは、
君のなかのすべての扉を開かせるだろう。

そして、
シオン。
この名前のなかで、君は君自身の終わりにも出会う。
終わりは、名前の水底に真珠のように眠っている。
やがて、君の終わりが、羽化する蝶のように目覚めるとき、
名前を呼ばれた君は、彼のところに、すぐに飛んで行く。
ちいさな子どものように。
彼は君をその腕に抱き、微笑んで、君の名前を呼ぶ。
誰よりも、
そして、どの瞬間よりも優しい声で、
シオン………。

シオン。
いつか、ぼくも、この名前で君を呼んでみたい。
ぼくが、本当に自由な愛のなかに開かれてゆくならば。
彼が君を呼んだのと、できるだけ同じ音色で。
彼が君を呼ぶのと、できるだけ同じ心で。
ぼくは、ぼくの声で、君の名前を呼んでみたい。
シオン。
本当の、君に出会うために。
本当に、君に出会うために。
開かれたぼくは、
歩き出す君を、心のかぎり呼ぶだろう。
シオン。 
祈りをこめて。いのちをこめて。
彼の野を歩む君が、君らしく、
本当に幸せであるように。
地平線よりずっとずっと遠くまでつづく野に、
君のために用意されているすべての花々が、
ひとつ残らず君のまわりで咲き、
君を踊らせ、
天までも舞い昇らせるように。

シオン。
この名前で、彼が、君を呼んでいる。
君が生まれる何億光年も前から、今まで。
この名前が管となって、
彼から君の方へと、いのちが流れてくる。
その水の清しい響き、
彼の声を聴く君の耳は、遠い渚の潮騒を慕う白い巻貝のように、
君の心の砂浜に絶えることなく打ち返してはまた寄せて、
すべての記憶の砂粒までもきれいに洗いきらめかせる、
彼の愛の波に満たされるだろう。

シオン。
今も、彼は、君を呼んでいる。
誰よりも優しく、誰よりも激しく。誰よりも静かに、強く。
世界中のあらゆる声を通しても、
彼は、君を呼んでいる。
時には悲しく、血を吐くような叫び声で。
君を捜して、ある時は、泣きながら、
傷ついた足でおろおろと歩きながら、 
彼は君を呼び求めている。
両の手を君のほうに伸ばして。
凍った唇で。
誰よりも優しく、君の名前を呼ぶ彼が。
シオン。
君と愛し合い、君とひとつの約束をしたいと、
彼は、君を呼んでいる。

君が生まれる何億光年も前から、彼は君の名前を呼んでいた。
シオン。
君の名前は、世界のどんな名前よりも美しい。
永遠から永遠まで、
彼が呼ぶ名前、
彼が愛する名前だから。
シオン。
この名前を通って、彼は君のところに来る。
彼の名前を通って、君が彼に会いに行くのと同じように。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。