小林多喜二、いのちと家族の記憶-三浦綾子、守分寿男の仕事から

   1903(明治36)年12月1日、小林多喜二は秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)に小作農家の次男として生まれました。少し古い資料では「10月13日」となっているものが多いようですが、それは旧暦の日付のようです。
   当時北海道・小樽で苦難の末にパンの製造販売事業に成功した伯父慶義が自分の失敗によって傾いた実家の始末を負わせていた弟 (多喜二の父末松) 夫婦への恩返しとして「長男多喜郎を小樽の学校に通わせてやりたい」と言う提案で、預けていましたが、多喜郎は、小樽で病死してしまいました。それから間もなく、一家は北海道に渡り、小樽・若竹町の伯父の別宅に借り住まいしました。多喜二が4歳の時でした。その後小樽築港駅に隣接する場所にパンや餅を商う店を営むようになりました。生活は豊かではありませんでしたが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け、多喜二は小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、絵画や文芸誌への投稿や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組みました。
   小樽高商の下級生に伊藤整がおり、伊藤は自伝『若い詩人の肖像』で、多喜二のことを書いています。「その図書館で私はまた、ほとんど常に、広い閲覧室のどこかに、あの蒼白い、自信ありげな顔をした小林がいるのを発見した。また来ている、とその度に私は彼の存在を意識し、うるさいように感じた」「私は、それ等の本のどれもが、私が借りる前に、あの顔の蒼白い小林多喜二に読まれていることを、自然に意識した」「あいつが読んだ後では、私は自分の読んでいる本の本当の中身がもう抜き去られているような気がした」「詩ならともかく、小説を読んでいる時は、私にはわからないカンジンの所を、小林の方が分かっていて、それをみんな吸収してしまっているにちがいなかった。私が小説を嫌ったのも、この気持ちのせいであったかも知れない」など、強く意識していた様子がうかがわれます。
   この前後から多喜二は、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めてゆきます。小樽築港や若竹町の付近には幾つもタコ部屋があり、労働者の酷使される姿や声は幼少期より多喜二の心に刻まれていました。
    1924年に小樽高商を卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務し始めた多喜二は、入船町で働いていた5歳年下の恋人田口タキ(『母』では「タミ」)に出会います。タキは父親の借金により13歳の頃より酌婦として飲み屋に売られていました。多喜二はボーナスに加えて、友人島田正策からも金を借りてタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取りました。多喜二の家族も暖かく迎えましたが、タキは7ヵ月後に自立を志して家出してゆきました。
   多喜二は1928年の総選挙に際し、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村々に応援演説に行き(この経験は後に『東倶知安行』に書かれます)ました。また同年に起きた三・一五事件を題材にした『一九二八年三月一五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察(特高)による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に虐殺される伏線になって行きました。
   翌1929年『蟹工船』が『戦旗』に発表されると、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め、同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場で上演されますが、同時に警察からも要注意人物としてマークされ始めることになります。『蟹工船』『一九二八年三月一五日』および同年『中央公論』に発表した『不在地主』などがもとで、多喜二は拓銀を解雇(諭旨免職)され、翌年春には東京へ転居してゆきました。
 ここから後の歩みはまた、2月20日の命日あたりに紹介したいと思います。

   さて、小林多喜二と三浦綾子との関わりですが、1977年と言いますから綾子さんが『泥流地帯』を書いていた頃だったようですが、光世さんが綾子さんに小林多喜二の母を書いて欲しいと頼みました。綾子さんは多喜二の『蟹工船』ほかの代表作は読んでいましたし非業の死も知っていましたが、共産主義の世界は遠い世界に思えて、心は動きませんでした。しかしそれから十年以上の光世さんの祈りがあり、多喜二の母の葬儀が遺言によって小樽シオン教会で行われ経ことを知って、少しずつ進んでゆき、『母』は1992年に刊行されるに至りました。綾子さんは多喜二についてこう書いています。

 私は小林多喜二という人は、かけ値なしに命を懸けて小説を書きつづけた人であると思う。日本にどれだけの作家が生まれたかは知らないが、多喜二ほどに真剣に、自分の思想に生きた作家はいないと思う。(略)多喜二は官憲に追われても、生きる道を閉ざされても、己が良心の指さすほうを選んだのである。地位が高くなり、生活が豊かになればなるほど、人間はそこにどっぷりとつかって、危険な道を避けようとするのではないだろうか。私には到底まねのできない生き方である。 
                                    (「多喜二の母」『ひかりと愛といのち』所収)

 多喜二の家は貧しく、伯父の援助で小樽の高商を卒業させてもらって北海道拓殖銀行に就職でき高給を貰えるようになったのに、その思想のゆえに馘首されるということになりました。息子が銀行を馘になったとき、特高刑事が家に来たとき、母はどれほど驚いたことだったことでしょうか。それでも母は多喜二の生き方を信頼していました。多喜二のすることに間違いはないと確信していたのです。
 綾子さんは母セキが小樽築港で小さな店を営んでいた頃のエピソードに注目しています。夕方になると学校から帰ってきた子どもたちが我先にと母に今日の出来事を話したがるので、店に客が来たのに気づかないことがありました。時にはパンや餅が盗まれていることもありました。そんなとき母は、
   「盗んだんでないべ、なんぼか腹すかせてたんだべ」
   と心から同情して言ったといいます。『母』の第二章「小樽の空」にも書かれているこのエピソードについて、綾子さんはこう捉えています。

 この母セキの、貧しい者への愛が、多喜二をして、自分だけの生活に安住させなかったのであろう。そしてついには、命まで失ったのであった。
 小説『母』を書き起こすにあたって、私は何人かの若い人に「小林多喜二を知っているか」と尋ねてみた。残念ながらほとんどの者が知らなかった。多喜二は忘れられてはならぬ人である。その母も家族も、忘れられてはならぬ人である。 (同前)

   綾子さんが多喜二の中に永野信夫や細川ガラシャなどと同質の魂を見ていることが分かりますが、多喜二の母、多喜二自身のみならず、綾子さんはこの家庭の明るさと温かさにも感動して『母』を書いてゆきました。『氷点』や『積木の箱』から『あのポプラの上が空』まで、現代日本の家庭の崩壊を描いた綾子さんだったからこそ、最後にこの小林家を書き遺しておきたかったのだと思います。 

   小林多喜二についての近年の再評価として、『母』から11年後の多喜二生誕100周年を迎えた2003年がひとつのエポックとなりました。この年から2年連続で白樺文学館多喜二ライブラリー主催「小林多喜二国際シンポジウム」が開催され、2005年秋には、中華人民共和国河北省の河北大学で「第1回多喜二国際シンポジウム」が、中国、日本をはじめ中国国外から研究者約200名を集め開催されました。その記録は、白樺文学館多喜二ライブラリー編 / 張如意監修『いま中国によみがえる小林多喜二の文学-中国小林多喜二国際シンポジウム論文集』(東銀座出版社、2006年2月。ISBN 4-89469-095-0)に収められています。
   また、生誕100年・没後70年を記念して、ドキュメンタリー映画「時代(とき)を撃て・多喜二」が「時代を撃て・多喜二」製作委員会によって製作され、日本各地で巡回上映されました。
   2008年には、若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーになり、翌2009年にSABU監督によって映画化されました。
   2008年5月31日(再放送:同年11月17日)には、HBCテレビ(北海道放送)製作のTV番組「小樽商科大学創立100周年記念ヒューマンドキュメンタリーいのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生」が放映されました。三浦綾子原作『母』の芝居を縦糸にしながら、一人の若者のひたむきな人生の軌跡として、北国の風土と共に描いています。同番組のDVD『ヒューマンドキュメンタリー いのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生』(北海道放送・2008年・本体価格2857円)は80分の本編のほかに30分の資料編「多喜二を語る 白樺文学館・多喜二ライブラリーの紹介」が収録され、上記の2005年の中国でのシンポジウムの様子も紹介されています。このHBCのテレビ番組を制作した守分寿男(1934-2010)は小樽商科大学の多喜二の後輩で、HBC入社後は「東芝日曜劇場」を中心に数々のドラマを演出・プロデュースしたディレクターで、この「いのちの記憶」は2008年の文化庁芸術祭大賞を受賞しました。倉本聰は東京から北海道に移住したきっかけの一つとして守分の名をあげ「自分の意見をしっかり出す人で、大いに刺激を受けた」と言っています。2009年には市立小樽文学館で「守分寿男前仕事」展が開催されました。そして、2011年9月22~24日には三浦綾子読書会全国大会が『母』をテーマに小樽で開催されました。この守分寿男さんのお嬢さんが画家の守分美佳さんで、三浦綾子読書会の案内パンフレットのデザインを担当してくださっています。そしてそのお兄さん守分行雄さんがオーナーを務める美瑛のペンション薫風舎は、三浦綾子読書会語り手(講師)養成講座の会場として毎年貸切で使わせていただいています。   ※下の写真は小樽奥沢にある多喜二の墓の傍に立っている樹。

 

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。