海に満ちる光 ― 『母』小林セキの命日によせて
小林多喜二の母セキは1961(昭和36)年5月10日、87歳で亡くなりました。
この日のことを小樽シオン教会の近藤治義牧師が書いています。
偶然にも、私は五月十日の午後三時すぎ母の日のカードと前回写した写真をもってお訪ねした。佐藤さん夫妻は外出中で、お手伝いの小母さんとセキ老姉とが茶の間のストーブを囲んでいられ私を迎えてくれた。その場の容子からは数時間後の急変を予測出来る何ものも感じとれなかった。間もなく佐藤さん夫妻も帰宅され、おばあチャンが、さんびか四〇四番「山路こえて」を紙に大文字で書いて貰い三節まで覚えられたという話を聞かされた。おばあチャンも、相槌をうって、先生、いい文句で、心にしみるように解りました、よい歌ですネ、といわれた。それで私は「さんびか」を出して、歌うかわりに読みあげたところ、おばあチャンはうなづき乍ら聞いていられた。後で伺うと、ここ二週間余り、あの歌を暇があると自室に入って紙を出しては覚えようと努め、とうとう三節までおぼえてしまった、そのとりつかれたような熱心さに驚いたという。そのうち少し気分が悪いというので竹かごの小枕をして、ストーブの傍で横になられた。佐藤さんがお医者に注射して貰おうと勤めたが、すぐよくなるからと制しておられた。その間小一時間になったので私は再会を約し、辞去した――その夜の八時すぎ心臓ゼンソクの発作で急逝されようとは夢にも思わないで……。(略) (昭和36年5月10日小樽シオン教会発行「ことば」より)
小説『母』の物語は、この半月ほど前の昭和36年4月のある穏やかな日の午後、セキが、訪ねて来た人に向かって自分の一生を物語るという形式を採っています。
この語りの舞台、セキが晩年を過ごした場所は、多喜二の姉・長女チマの嫁ぎ先である佐藤家の離れでした。眼下の小樽の海から石狩湾を挟んで向こうに「増毛のほうの山」が見えました。綾子さんは最初の原稿用紙では山の高さまで書きながら作品には山の名前を書きませんでしたが、「増毛のほうの山」で最も高いのは暑寒別岳と言います。「暑・寒・別」、それはまさに、長い人生の道のりの中の暑かった日、寒かった日、別れのとき、それらすべてを見渡して語りながら、眼差しを遠くに向けてゆく時間でした。
人生の最後に語る物語、それは言わば、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受ける事が定まっている」(「へブル人への手紙」9章27節)と聖書に言われるとおりに、「おのおの自分のことを神の御前に申し開きする」準備をし、そして同時に神の前に訴えている物語であるとも言えるでしょう。この血を吐くような悲しみと憤りとを聴いてもらいたい。そして、本当に神が正しい裁きをなさる方なら、この息子とこの老母の人生を正しく掬い取ってくれるはずではないかという切実極まりない問いがあるのです。しかし、その問いはやがてその問いそのものを超えた道、裁きを求める心自体を溶かしてゆく救いへと彼女を導いてゆくことになりました。
物語の最後に、多喜二が殺された二月が来るたびに湧き出る悲しみを、セキが自分で書いた詩を近藤先生に見せる場面があります。セキは貧しくて学校に行けなかったので文字を学ぶ機会がなく、年を取ってから獄中の多喜二と手紙をやり取りしたくて習ったので、たどたどしいものでありました。
あーまたこの二月の月かきた/ほんとうにこの二月とゆ月か/いやな月こいをいパいに/なきたいどこいいてもなかれ/ないあーてもラチオて/しこすたしかる/あーなみたかてる/めかねかくもる
ところが、それを読んだ近藤先生は何も答えず、海の方を見て黙っていました。
(先生、何か気にさわったべか)
と思ったら、先生の口、ひくひくしてるの。そしてな、持って来たでっかい聖書ばひらいて、「お母さん、ここにこう書いていますよ。『イエス涙を流し給う』ってね」先生そう言って、声ば殺して泣いてくれたの。
わだしは、「イエス涙を流し給う」って言葉、何べんも何べんも、あれから思ってる。イエスさまはみんなのために泣いてくれる。こったらわだしのために泣いてくれる。下手なもの書いたと思ったけど、そう思ったら、破るわけにいかんの。/いや、ながいこと喋ったな。ほんとにありがとさんでした。いや、ありがとさんでした。/おや、きれいな夕映えだこと。海にも夕映えの色がうつって。
その言葉を何べんも何べんも思ううちに、彼女は自分の人生の涙を思い出したのです。凶作のたびにお友だちの女の子たちが売られていって泣いた日、タミちゃんが助け出されて来て嬉しくて泣いた日、多喜二が殺されて泣いた日。神さまなんて遠かった。こんなちいさな私とは関係ない方だと思ってた。でもそうじゃなかった。あの日もあの日も、嬉しくて悲しくて私が涙を流した日、あの日もあの日もあの日も、近藤先生と同じように、神さまは一緒に泣いてくださってたんだ。「こったらわだしのために泣いて」くださる方がおられたんだ。だとしたら、私の人生は私一人の涙でいっぱいの人生じゃなかった。イエスさまの涙で満たされていた人生だったのだと分かったのです。そして讃美歌「山路こえて」を歌ううちに、彼女の手を引いて山道のような人生を一緒に歩いてくださるイエスさまが分かってくる。そのとき、その心にはもう「ありがとさん」しかなくなるのです。心がありがとうで一杯に満たされてゆくとき、彼女の目の前の海に満ち始めてくる夕映えの光はもう、天の国からの光でもあったのでしょう。
この「イエス涙を流し給う」という言葉は新約聖書のヨハネによる福音書11章35節の言葉です。1991年の旭川六条教会発行の『神ともにいます』という冊子に綾子さんが心に残る聖句として選んでいるもので、1999年10月14日、綾子さんの葬儀前夜式の時ときに説教に使われました。この聖書の言葉がいつごろから、綾子さんの心に通っていたかはわかりませんが、単にこの小説の結末に相応しいというだけの言わば主題造形的な理由だけで置かれているわけではなく、この91年頃綾子さんの心に強く響いていた言葉であったのだと思います。
だから、この「『イエス涙を流し給う』って言葉、何べんも何べんも、あれから思ってる」のは綾子さんでもあるのです。「ながいこと喋った」というのもまさに口述筆記で多くの本を書いてきた綾子さん自身です。綾子さんはここで私たち読者に対して、あるいは書いてくれた光世さんや出版してくれた方々や、祈ってくれた方々に対しても、「ほんとにありがとさんでした」と感謝しながら、「イエスさまはみんなのために泣いてくれる。下手なもの書いたと思ったけど、そう思ったら、破るわけにいかんの」と語っているのです。それは綾子さんが最後にもう一度、自分が書いてきたことの意味をはっきりと語った言葉です。「イエスさまはみんなのために泣いてくれる」ということをもって「みんな」を励ましたい。それが綾子さんの願いだったのです。この末尾の文章は、彼女の作家としての最後のご挨拶でもあったのです。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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