『塩狩峠』長野政雄の聖書 下

 

 

             五

   長野さんがレールに飛び込んだときに持っていたものが、聖書のほかにもうひとつあります。それは彼が胸に常に持っていた遺書です。
 その日長野さんは聖書をポケットに入れたまま居眠りしていたが、時ならぬ騒ぎで目がさめてデッキに飛び出して、寝ぼけていたので足を滑らせてレールの上に落ちた、という意地悪い推測も出来なくはありません。しかし、それはまずありえません。なぜなら長野さんはその日、居眠りするような状況ではなかったからです。彼は既に、この日自分が死ぬかも知れないと自覚していたのです。幾つかの証言と長野さんの遺書がそれを語っています。
   当時同じ旭川組合教会員だった田中亮さんが書かれた「長野政雄君、最後の状況」という文章(札幌組合教会の月報『北海光』明治42年3月15日発行)によると、長野さんは前日の2月27日、田中家を訪ねて、「田中君も、これから大いに奮闘してくれよ。ただし身体だけは大切にするんだよ」と、私を励ました。そして君は言った。「僕は死んでも感謝、生くるも感謝、汽車にて死するは更に感謝」と言ったということです。
   また、長野さんの妹みねさんも、二十八日の事故後に、こう証言しました。「昨日、兄が出かけます時に、いつもと違って『私が死んだら、すなわち、この兄が死んだら、お前は失望するか』と申しますから、『決して失望はしません』と答えましたら『きっとか』と重ねて申しますから『決して』と答えますと『感謝感謝』と申して家を出て行きました。」(いずれも、中島啓幸さんの著書『塩狩峠、愛と死の記録』による)
   これらは殉職前日の証言ですが、長野さんはかなり早い段階で、地上の生涯がそれほど長くはないという意識を持っていたと思います。それは「神と人のために、いつ命を召されてもいいように」という信仰から来る決意と共に、しかし、ある時期からは、神さまから直接に何らかの形で啓示されていたものもあったのではないかと思います。世間からは独身主義者のようにも見られていた長野さんですが、彼の独身は主義などではなく「私は長く生きられないだろうから、ひとりの女性に特別な愛を持つようなことを、これまでのようにこれからもしたくない」という思いからだったのです。また、毎年正月に遺書を書き改めて、いつも懐に持っていたというのも同じ理由によると考えられます。
   そして更に、ある時期からは、その時がもう遠くはないという自覚(あるいは神様からの示し)がさらに強くなっていったと思います。
   1907(明治40)年に至って長野さんの信仰は、熱烈になっていきました。その前年に同じ教会の横山清五郎が東京で中田重治(戦前のホーリネス教会の監督で内村鑑三などとも親交が深かった人物)に会って、その集会で聖霊体験をして帰ってきました。横山は長野政雄と共に聖霊を求める祈祷会を毎週金曜日にピアソン宣教師宅で開きました。この集会には、義務で来る人が絶対にないように、人を誘わないという鉄則がありました。日誌によると、ある時は猛吹雪で多くの人が阻められたこともありました。その日の祈祷会の出席者は2名で、横山清五郎と長野政雄であったと記録されています。それほどにこの二人は激しく聖霊を求めたのです。
   そして、遂に一九〇七年一月十九日土曜日、夕方、この祈祷会において、聖霊が下りました。組合教会日誌にはこう書かれています。「午後六時半より本会において最終連合祈祷会の席上、聖霊がくだる。祈とう後、ざんげする者多し時間を超過し、みな涙を流す。神の恩に感謝せり。出席者十八人 司会・長野兄」。悔い改めと感謝と献身の祈りが上がり、電気にかかったようであったと坂本竜馬の甥で当時日本キリスト教会旭川教会牧師であった坂本直寛の自伝にも書かれています。彼もこの席にいたのです。これがいわゆる旭川リバイバルです。坂本直寛は翌日、帯広に出かけて行きましたが、その時帯広監獄でも聖霊が働かれ囚人数百人が救われ看守は全員信仰を持ったと言われています。監獄が天国のようになったということです。これが帯広監獄リバイバルと呼ばれるもので、この同じ1907年には朝鮮半島ではピョンヤン大リバイバルも起きています。日本と朝鮮半島にそのようなことが起きた時期、その中に長野政雄もいたのです。
   長野さんはこのころ「キリストは三十一歳にして立ち上がり、わずか三年で偉業を後世に伝えられた。私ももうじき三十一歳になる。主の跡を踏んで、私も三年の奮闘を試みたい」と人に語っています。このような信仰的な言葉の裏で、実際に死期が遠くないのを悟っていったと思います。

              六

   長野政雄さんは毎年正月には遺書を書き改めて、上着の内側に縫い付けていたと言われていますが、残っているのは殉職当日持っていた遺書だけで、それ以前の物は(おそらくは本人が処分したでしょうから)全く知られていません。しかも、その唯一知られている殉職時の遺書も現在では絵葉書になった写真で知ることができるだけで、実物は発見されていません。毎年書き改めていたということは、当然のことながら、毎年、内容も少しずつ変わっていっただろうと思われますが、一枚きりの写真だけではその変化を後づけることは困難です。絵葉書の写真から最後の遺書が語ることを、できる限り読み取って見たいと思います。
   この遺書は、八項目の文章で出来ています。簡単に要約すると以下のような内容です

一、火葬にせよ、できるだけ簡単にせよ。
二、親を待たずに火葬にせよ。
三、罪はイエスに贖われた。
四、連絡すべき母の住所。
五、余は感謝して凡てを神に捧ぐ諸兄姉よ余をして一層感謝すべく祈り給はんことを。
六、日記や手紙はすべて焼け。
七、余の永眠によって神に近づいてほしい。
八、苦楽生死均く感謝なり。

   綾子さんは小説『塩狩峠』で、この遺書の中の八つの文の中の四番目の母の住所を削除し、さらに三番目の文と七番目の文を一つにまとめたことで、結果六つにし、さらに順番も変えています。上記の番号で記すと、五(後半を略している)・三+七(三・七を一つにしている)・二・六・一・八となります。
   綾子さんは五番目の「余は感謝して凡てを神に捧ぐ」をトップに持ってきています。なるほどこれは最初か最後にふさわしい文でしょう。でも、最後の八番目には更に最後に相応しい「苦楽生死均く感謝なり」がありますから、こちらを最初に持って来たのでしょう。
   綾子さんの場合は小説としての表現の理由で変えているのですが、実は元のこの順番にこそ秘密があるのです。つまり、文章から見ると、この遺言書は五番目の「余は感謝して凡てを神に捧ぐ」で一旦終わっているということです。そして、六~八が後から付け加えられているように見えるのです。実際、元の遺書の写真を見ると、一~五までが表面、六~八が裏面に書かれています。表の面は白ですが、裏面は記念絵ハガキのようで、開いているスペースに無理しながら書いている感じです。
   つまりこの実物の写真から推測すると、八つの文章をはじめからこのはがきの裏面も使って書こうと思っていたのではなく、当初の予定では片面で終わるはずだったのに、裏面にも新しく付け加えてしまったということではないかと考えられるのです。表の最後の文である、五番目の文が終りっぽいということも、それを示しているのです。更に長野さんがこの遺書を書いたときのことを想像してみると、長野さんは前年の遺書を見ながら新年の遺書を書いていただろうと思うのです。前年のものを読んで、まずはそのままでよいと思われたのでそれをおそらく全文写しました。それが一~五です。しかし、そこで長野さんは祈り、あるいは何がしかの啓示的な声を聴いただろうと思います。そして、裏面に新しいその年始めて書く六~八の文章を加えたのです。六、日記や手紙はすべて焼け、七、余の永眠によって神に近づいてほしい、八、苦楽生死均く感謝なり。どれも、表の面に書かれた文章よりも、かなり現実的に死を考えている息遣いです。
   一九〇七年一月長野さんは聖霊体験して信仰が覚醒されると共に、死を意識し始めます。それは当初いつでも神と人のために命を投げ出せるようにという信仰的な決意であったでしょう。遺書を常時持ち歩きだしたもこの頃からではないかと思います。それが一九〇九年正月にいたって死期をかなり強く現実のものとして意識した様子が、この遺書の写真から読み取れるのです。おそらく長野さんは、この遺書を書き終えたときには既にほぼ確信していたと思います。今年召されるに違いないと。

              七

   明治四二年二月二七日長野政雄さんは、今日明日の名寄への旅行で自分は死ぬにちがいないと、はっきりと意識しながら出かけて行きました。旭川駅を出発し走り出した列車の窓から見る彼の目に、遠ざかる旭川の町はどう映ったのでしょう。
 神さまは明治三九年或いは四〇年ごろから三年ほどかけて、長野さんに犠牲の死の準備をさせました。少しずつ示し、導き、その日に備えさせました。彼はそれに答えて見事に歩みました。死ぬための準備だけではありません。明治四〇年一月、聖霊に触れられた彼は、それから廃娼運動、アイヌ差別問題、反戦平和運動、病人訪問、キリスト教鉄道青年会、日曜学校、そしてそこに来る子どもたちの家庭がアルコールで崩壊していることをしったので禁酒運動にも取り組みました。それらの働きは結局、すべてのいのちを愛すること、特に小さないのちを愛するということであったことを思います。長野さんは蚊も殺さず、子どもたちに踏みつぶされる蟻も助けたと言われています。長野さんは明治四〇年の一月、ピアソン宣教師の家で開かれていた祈祷会の席上で聖霊に打たれたとき、すべてのいのちを愛するという仕事に召されたのでしょう。長野さんは神さまに命じられたそれらの仕事のために、凄まじいばかり勢いで献身的に働きました。しかしその間も彼は少しずつ少しずつ明瞭になってくる死を見ていたのです。そして死を見つめながらのそれらの働きの一つ一つはそのまま、塩狩峠での最後の仕事の備えにもなって行ったのです。
   あるいは長野政雄さんも祈ったかもしれません。「父よ、この盃を取り除けてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のままになさってください」と。この祈りは小説『塩狩峠』ではふじ子さんの祈りになっていますが、長野さんもくり返しくり返し祈ったでしょう。そしてその自覚された最後の日の最後の時間、彼は運命の四両目の車中で、命の最後のしずくを子どもたちに、聖書のことばを子どもたちに伝えることのために注いだのです。そして、日曜学校の聖書と内ポケットに縫いつけられた遺書と共に、神さまの計画通りに、暴走する客車を止めるべくレールの上に身を投げ出してゆくのです。
   事故から百年経って、二〇〇九年、新しい資料が発見されました。名寄市の北国博物館に所蔵されている、当時の天塩教会(現在の名寄教会)の小北寅之助牧師が事故の翌週にした説教の原稿ノートです。その中で小北牧師は前週の日曜日の殉職直前の長野さんについて証言して書いています。
   「人間死期は分らぬもの。然し無意識に感ずるものの如し。食事して預言せられたり。人間に直覚力あり」(原文はカタカナで句点濁点なし)
   既に挙げた田中亮さん、妹のみねさん、そしてこの小北牧師。別々に聴いた三人の証言者がある上は、長野さんが死を予期していたことは間違いないと言ってよいでしょう。
   鉄道による事故死を予期していた長野政雄、結核の病状の容易でないのを痛感していた前川正、心臓の弱りを自覚していた西村久蔵、あるいは肝硬変の進行を承知していた榎本保郎。彼らは死期を知らされたゆえに、真剣に生き得たのでしょうか?それとも、真剣に生きうる者だけが、死期の自覚をも糧にしてゆくことができるのでしょうか?彼らの主であるイエス・キリストもそうであったのですが、死を見つめながら生きる者の中にのみ、或いは死のもっと彼方を見つめて生きる者の中にのみ、本物のいのちがあるのなら、死を思わずにうかうかと生きる者からは、本物の生も逃げ去ってしまうのかもしれないと恐れざるを得ません。
   修道院での朝のあいさつは「メメント・モリ」という言葉で交わされると聞きます。「メメント・モリ」とは「死ぬことを覚えよ」という意味です。すなわち、始まったばかりのこの日に死ぬかもしれない者であることを、お前は決して忘れるな、そのような存在であるならば一瞬も神から心を離すことはできないはずではないかと、戒め合うのです。一粒の麦が地に落ちて死ぬべきものであることを忘れるなら、それは一粒のままであるのみならず、いつしか枯れて朽ちてしまうのです。こんな生の掟は余りにも厳しいでしょうか。けれど神は人を、自ら落ちて愛するという生き方もできる者にお造りくださったのです。

  ※最初の写真は、殉職時に携帯していた血のついた聖書の表紙内側。次の写真は携帯していた遺書の裏面の写真(『故長野政雄君の略伝』に画像があるが、現物は不明)

  • 以上の文章は全国三浦綾子読書会会報 No.40~46に連載したものによる。五の部分の資料は中島啓幸著『塩狩峠、愛と死の記録』およびその初出『百万人の福音』連載時の「北国に心は燃えて」による。
  • 塩狩峠百年メモリアルフェスタ記念文集『塩狩峠に生かされて』に収載の福森光敏牧師の「長野政雄とリバイバル」にも同様のことが書かれている。福森氏が用いられている資料はI・G・ピアソンの『六月の北見路』である。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。