『塩狩峠』長野政雄の聖書 上
一
2003年、中島啓幸さんが東京の長野政雄さんのご遺族のお宅に訪問したとき、中島さんは、小さな古い一冊の聖書を渡されました。「殉職の時にも持っていた」「愛用の聖書だと言われているその聖書は、血痕らしき黒い染みがついた、文庫本と同じ版型の小型の聖書です。遺族から譲られて現在は中島さんの所有となったこの聖書をお借りして、私は半年ほど手元に置いて研究することにしました。
この聖書は、奥付等によりますと、横浜の大日本聖書館発行の『新約全書』(*新約聖書)で、明治三十三年四月に発行されています。中表紙の前の紙には、黒い墨の筆字で、「旭川基督教會/日曜學校図書」と書かれています。この文字は、六条教会に残っている教会日誌などと比べてみて、長野政雄自身の筆跡と思われます。そして、末尾の奥付のページの角には備品番号と思われる紙も貼ってあります。つまり、この聖書は「愛用の聖書」などではなく、日曜学校図書の備品の聖書を当日なぜか持っていたと推測せざるを得ません。
全体に表紙は痛み、外表紙の磨耗は激しいのですが、中のページはそれほど激しく読んだ形跡はありません。前半部のみに、書き込みはありますが、二種類の筆記用具で、赤い鉛筆およびボールペンでなされています。赤ボールペンなどは戦後のものですし、赤鉛筆も明治末年の当時は普及していなかったと思います。また、傍線以外のわずかな文字の筆跡も、長野さんのそれとはだいぶ違うように見えます。つまり、長野さん自身の書き込みは、本文にはなく、「旭川基督教会日曜学校図書」のみということです。
この聖書は新約のみであることからも、長野さんが常に読んでいたものではないと思われます。つまり、どういう事情からか、殉職時に携帯していて、血もついていたので、旭川教会日曜学校の備品だけれど、遺品として遺族に与えられたのだと考えられます。愛用の聖書だと聞かされていた私はがっかりしました。
長野さんは当日もう一冊聖書を持っていました。その聖書は殉職時、車両の網棚の上にありましたので、血はついていません。これは旧新約両方の入った聖書で、こちらが愛用の聖書だったと考えられます。この聖書にも書き込みはありますが、こちらの筆記用具も長野さんの時代のものとは思われないものが多く、墨と筆で書かれている文字もありますが、その筆跡も長野さんのものとは全く異なっていて、殉職後に教会員や遺族の間を移動していったときに、書き込まれた可能性が非常に高いと思います。
長野政雄の聖書を調べてわかったこと、それは、長野さんが聖書に書き込みをしなかったということと、愛用の聖書も携行していたのに、殉職時には日曜学校の備品の聖書を持ってレールに飛び込んでいるということです。
今思うと、ここまでは、調査研究に過ぎませんでした。私はまだ長野さんの聖書と本当に語り合ってはいませんでした。だから、ここでいわば行き詰ったのです。あのような死に至った長野さんの信仰を掘り出すことが出来なかったのです。
しかし、もう一度この聖書の前に座りなおし、祈って本当の対話を始めた時に、聖書は語り始めました。その日、彼は「旭川基督教会日曜学校図書」である新約だけの聖書と、常に持っていた遺書とを胸に抱いて、レールに飛び込んだ。なぜ日曜学校図書の聖書を持っていたのか?なぜ普段読んでいる自分の聖書ではなかったのか?そこから本当の対話が始まりました。
長野政雄は聖書に、「旭川基督教会日曜学校図書」という文字と、自分の血以外に、全く書き込みをしていません。しかしそれを通して、彼はこう語っていると、私は思いました。
聖書は、自分の言葉を書き込むためにあるものではない。聖書は、その言葉を自分の心と人生に書き込むためにあるものなのだ。そして聖書は、本質的にイエス・キリストの尊い血によって書かれているのだから、その血によって救われた我らも、自らの血をそこに注いで聖書の言葉を自らの人生の上に成就すべきである。
二
殉職する前日の明治四二年二月二十七日、午後三時半ごろ、長野さんは、旭川市二条四丁目の教会書記・田中亮さん、教会学校副校長・田中喜代松さん兄弟宅を訪ね、「これから名寄へ行く。聖日礼拝に出席できないからよろしく頼む」と言い、教会学校の書類のいっぱい入った風呂敷包みを手渡して立ち去ったと、中島啓幸さんの『塩狩峠、愛と死の記録』にあります。
長野さんはこのとき、持っていた日曜学校図書の聖書も田中さんに渡すはずだったのに渡し忘れたので、名寄まで持って行ってしまったということも考えられます。しかし、冷静な長野さんこと、その可能性は低いと思います。では、日曜学校校長である長野さんが教会図書を私物化していたのか?それも考えられません。長野さんは、このとき別にもう一冊、自分のいつも読んでいる聖書も持っていましたから。それに、この日曜学校用の聖書は新約だけのものでした。長野さんがいつも読んでいる聖書はもちろん旧新約両方の載っている聖書です。新約だけの聖書をもう一冊持つ必要などなかったのです。
だからこそ、むしろ長野さんは明瞭な意図をもって、日曜学校図書の聖書を持って行ったと思います。長野さんの名寄行きは「略伝」はじめ、いくつもの資料で、鉄道の公務と、基督教鉄道青年会のためであったとされていますが、当時の天塩教会(現名寄教会)の小北寅之助牧師の日誌によりますと、二月二十八日の日曜日は、朝九時から、長野さんは日曜学校生徒のためにお話をしたことが分かります。とすれば当然、長野さんはそのための準備をして行ったはずです。網棚に聖書、讃美歌と共にあった教材もそれを証ししています。そして、この聖書も準備の一つだったと思うのです。日曜学校の御用がなければ、その時、長野さんは日曜学校図書の聖書を持っていくことはなかったでしょう。多分、長野さんは日曜学校で子供たちに語るときには日曜学校用の聖書を使うということを、常にしていたのではないかと思うのです。私も朝自分が個人的に読む聖書と、教会に持ってゆく聖書、そして大学で教えていた時には授業に持って行く聖書は分けてありました。子供向きの翻訳がしてあるというようなことではなく、子供たちに向かう時には子供たちのための祈りの沁みた聖書。そうやって心を切り替え集中してゆくということはあると思います。長野さんは、日曜学校でお話をするためには、日曜学校用の聖書を使っていた。それが、このとき、長野さんが日曜学校図書の新約だけの聖書を持って行った理由です。ですから当然、自分がいつも読んでいる聖書も持って行きました。礼拝の時にも、朝晩や、或いはいつでも読むためにそれは必要です。それが網棚に賛美歌と一緒に載っていたと言われる聖書です。
では事故が起きた時、自分用の聖書は網棚の上に置いて、この日曜学校用の聖書を持っていたのはなぜでしょうか。
おそらくは映画の「塩狩峠」同様、列車に乗るとき長野さんは、教会や基督教鉄道青年会の人たちに見送られて、発車直前に最後尾から乗ったのではないかと思います。だから四両目でした。客車に入り、座席に腰を降ろして、長野さんがすること。映画『塩狩峠』でも、永野信夫は車中、聖書を読んでいました。長野政雄さんもきっとそうしたと思います。そして、その時に読むのは旧新約両方入った自分の聖書のはずです。ですから、このご用を終えた日曜学校用の聖書が網棚の上にあり、大きい自分の聖書が手元にあるべきです。もちろん新約だけの日曜学校の聖書は小さいですから、大きな外套を着ていればポケットに入れていたとも考えられます。
でも、そうだとしたら、大きい方の聖書は網棚の上にあって、日曜学校用の聖書を持って殉職したのはなぜでしょうか?もう疲れていて、聖書なんか読む気になれず、日曜学校用の聖書をポケットに入れたまま居眠りでもしていた時に事故が発生したのでしょうか。そうではありません。長野さんはそのとき、この日曜学校用の聖書を使っていたのです。自分が読むという目的のためではなく。はっきりした理由があって。
三
私の目に浮かぶ光景があります。長野さんの目の前には少なくとも一人の人物がいました。たぶん二人か三人。そして、そのうちの一人か二人は子どもです。
名寄駅で発車間際に最後尾から車中に入った長野さんは、映画の信夫と同じように、腰を下ろすと、始め自分の聖書を読み始めたかも知れません。しかし、そのうちにふと車中を見回したところ、子どもが乗っているのに気がついた。長野さんは子どもを見るとじっとしていられない人だったと思います。三浦綾子さんもそうでしたが、子どもを見ると声を掛けずにはいられないのです。
明治三十八年の一月一日に長野さんが詠んだ歌が遺されています。
此の年もまたまめやかにみふみもち 数の子供に おしへつたへむ
豆や餅、数の子などを配した、正月らしい戯れ歌ですが、今年もたくさんの子どもたちに伝道しようという強い情熱が表われています。そして、長野さんは旭川教会にはじめて足を踏み入れた日に、いきなり日曜学校長にされたという伝説があるほどに子どもたちに愛される特別な賜物があった人です。素晴らしい人柄が表にも溢れていたのでしょう。そのゆえに、長野政雄が日曜学校の校長をしていた時代に、通う子どもたちの数は数倍に激増して最後には100人をはるかに超えていました。たぶん機会あるごとに、子どもに近づいては日曜学校に誘い、あるいは伝道したのだと思います。その日その客車に乗っていた子どもも、長野さんと目が合ったとき、嬉しくなってにっこりしたかもしれません。長野さんは「めんこいなあ」と思ったでしょう。
そのとき、長野さんは、網棚の風呂敷を下ろし、それまで読んでいた大きい聖書を包んで棚に上げ、その風呂敷の中かポケットかにあった日曜学校用の聖書を取り出し、それを持って、子どものいる席まで歩み寄って行ったのです。そして、聖書を開いてその子どもに、神さまのお話をしていたのです。塩狩峠の頂上で列車がガタンと言って止まり、後ずさりを始める、その時まで。
長野政雄がそのとき語った聖書の箇所。それはわかりません。彼は日曜ごとに日曜学校で校長として説教をしていましたが、そこでどんな話をしていたのか、どんな聖書の箇所を取り上げていたのかは、不明です。しかし、中島さんの本を読むと、一度だけ、長野さんが公の集会で選んだ聖書の箇所と思われるものが出てきます。
その資料は旭川六条教会の『明治四拾一年旭川日曜学校部会記録』です。長野さんは当時自分の教会だけでなく、他の教会とも深い交わりと協力関係をもって、旭川のすべての子どもたちを愛して、尽力していたのですが、明治四十一年一月二十五日、ピアソン宣教師宅で開かれた会で、長野さんが祈祷、司会進行を担当し、聖書朗読の箇所も長野さんが選び自ら朗読したと考えられます。このときの聖書はマルコの福音書10章13節から15節です。
「イエスに撫(さはら)れんがため人々孩提(をさなご)を携(つれ)来(きたり)けれバ弟子等(たち)その携(つれ)来れる者を責(いまし)めたり イエス之を見て怒を含(ふくみ)かれらに曰(いひ)けるは孩提(をさなご)を我に来(きたら)せよ彼等を禁(いましむ)る勿(なか)れ神の国に居(をる)ものは斯(かく)の如き者なり 誠に我なんぢらに告(つげ)ん凡(おほよ)そ孩提(をさなご)の如くに神の国を承(うけ)ざる者ハ之に入(いる)ことを得ざる也」 (馬可傳第十章十三節-十五節)
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(マルコの福音書10章13-15節 現代語・新改訳)
このとき、長野さんが語りかけた子どもは、何歳ぐらいのどんな子だったのか、何人だったのか、それは分かりません。けれど、ちょうど旭川に残してきている二歳の姪しまさんぐらいの子もいたのではないかと、想像します。
客車が連結を離れて逆送していることに気づいた乗客は大混乱になったでしょう。長野さんは持っていた聖書を握ったまま祈り、或いはすぐにポケットに入れて、立ち上がったでしょう。自分の席だったら、聖書はそこに置いたかもしれませんが、そこは自分の席ではなかったので、聖書を持ったままだったのです。長野さんは凛然とした声で「神を信じて騒ぎを止められよ」と言って、すぐにデッキに出ました。まだ大したスピードではなかったでしょう。ハンドブレーキを廻す。少し速度が落ちるが、止まらない。またスピードが上がり始める。
四
ハンドブレーキを回しても客車を止めることができないと悟った時、長野さんは乗客に窓や反対側のデッキから跳び降りて難を避けるように指示するという手段も一瞬は考えたと思います。実際、『塩狩峠』を読んだ人が何人かいれば、窓からでも飛び降りればいいのにという感想を持つ人が必ずいます。しかしそれは、長野さんにはできることではなかったのです。子供たちがいたからです。彼はすぐに子どもたちのことを考えたでしょう。赤ちゃんは大人が抱えるにしても、姪のしまさんほどの年齢の子ども、或いはもっと小さい子どもを何人も抱えた人もいる。下手に落ちれば首の骨を折ることだってある。一刻を争ううちに、子どもたちだけが車両に取り残されることだってありうる。小説『塩狩峠』では、松葉杖をついた「廃兵」と呼ばれた人も乗っていました。お年の方もいたでしょう。駅で列車の最後尾部の段から乗っていった乗客にとって、最後尾の四両目はすぐに座りたい人が座る車両です。元気で身軽な人はもっと前の空いた車両に進んで行くでしょう。荷物の多い人、子ども連れの人、お年寄り、体の不自由な人。そんな人たちが最後尾の四両目には乗っているのです。逃げることの困難な人たちの車両。それが運命の四両目なのです。この逃げられない人たちのために、長野さん自身も逃げることができなかったのです。
いかにすべきか。一瞬迷ううちにも、スピードは速度を増してゆきました。子どもたちをはじめとする乗客の命を守るための選択肢は、もはや一つしかなくなっていったと思います。
長野さんに、もし『塩狩峠』のふじ子さんのような足の不自由な婚約者がいたとしたら、彼女はやがては、その悲しみの果てで、必ず気づいたことでしょう。
「あの四両目の逃げることのできない人たちのために長野さんが身を投げ出したのは、私のために投げ出してくれたのと同じことではないか。もしあの暴走する客車に乗っていたのが私一人であったとしても、やはり長野さんは自分の身を投げ出して客車を止めて下さったでしょう。客車から跳び降りることの出来ない足の不自由な私のために。だから、長野さんが死んだのは、あの車両に乗っていた乗客のためだけではなくて、この私のためでもあったのだ。あの時、長野さんは、この私をも命を投げ出して愛してくださったのだ」と。
三十年後の昭和十四年二月に発行された旭川六条教会の月報『ろば』には、長野さんの遺稿「何ぞ神の助を乞はざる」という文章が掲載されています。
主イエスキリストによりて一切の罪をきよめられ、真のクリスチャンとならんとせば、すべてのものを犠牲とせねばならぬ。てうど母親が子に対すると同様、自分は非常に空腹の時も小児が飢にさけんでおれば、自分の空腹をわすれたやうに小児に先に食を与へ、又寒中小児が寒さのためにこごえんとする時、母親の衣服を小児に着せるため、遂に母親はこごえ死んだと云ふ美談があります。これが即ち真の犠牲、真の献身と云ふものと思ひます。
空腹で寒さに凍える子どもに必要なのは暖かい衣服と食べ物です。長野さんはこの文章で自ら書いたとおりに、子どもたちや弱い人たちを守るために、日曜学校図書の聖書がポケットに入った外套を着てレールに飛び込みました。聖書という食べ物と自分の外套、そして長野さん自身の肉の衣をも子どもたちに与えたのです。そして、それらが、暴走する運命の四両目の客車を止めたのです。(下につづく)
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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