「一生懸命生きましょうね」と丘の上で彼は言った。

  その日から、わたしたちは、友だちであることをやめた。
        導かれつつ叱られつつ来し二年何時しか深く愛して居りぬ
        吾が髪をくすべし匂ひ満てる部屋にああ耐へ難く君想ひ居り
  わたしは生まれて初めて、恋愛の歌を作った。
  やがて雪がとけ、北海道にも春がきた。桜も、こぶしも、一時に咲く五月がきた。旭川の五月は美しい。わたしたちは連れだって、時々春光台と呼ばれる丘に行った。この丘は彼がわたしのために自分の足を自ら石をもって傷つけた丘である。 (『道ありき』21)

 その日、その丘で二人ははじめての口づけを交わしました。男はそれを誕生祝いだと言いました。その一週間前、四月二十五日が女の誕生日だったからです。そして、男は若草に上にひざまずいて、祈りました。

  「父なる御神。わたしたちはご存じのとおり、共に病身の身でございます。しかし、この短い生涯を、真実に、生き通すことができますようにお守りください。どうか最後の日に至るまで、神とお互いとに真実であり得ますように、御導きください」   (『道ありき』同)

   女は男の真実な愛にうたれて涙し、男は己れのいのちの短さと後に残される女を思って涙しました。男は言いました。
  「一生懸命生きましょうね」
   女はこの言葉にこめられた男の本当の心に、そのときは気づくことができませんでした。それからちょうど四年、男はこの言葉の通りに生きました。そしてこの日と同じ五月一日の夕方、旭川市九条十七丁目の自宅で意識不明に陥り、二度と目覚めることはありませんでした。それでも、この丘で男が語った言葉は女の胸の奥に宿り、来る年も、来る年も、来る年も、聞こえつづけて女を支える声となりました。あとから分かるのです。あとからしか分からないのです。でも、共に真実に一生懸命生きようとした者は、あとからでも必ず分かるのです。そして、それはいのちになるのです。すべて、真実な愛の型どおりです。いつも、丘の上で命がけで愛した者の言葉は、消えない声となるのです。だから、たぶん四年後、男が死んだ昭和二十九年五月一日の夜にも、女には聞こえたはずなのです。
   「一生懸命生きましょうね」

 

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。