病院の廊下に額をすりつけて祈る ― 綾子さんのお父さんのこと

 私は十三年もの療養で家を傾けた親不孝な娘だったが、その病気の最中に、私の部屋に入って来て、
「綾子、弱く生んですまんかったなあ」
   と、声をうるませたことがあった。長い療養中の娘に親が謝る……そんなことがあってよかろうか、私はその親心に深く打たれたものだった。                                                     (『命ある限り』) 

  『氷点』入選から五年に満たない、1969年4月30日、綾子さんのお父さん鉄治さんが亡くなりました。八十歳でした。
   綾子さんは男七人女三人の兄弟姉妹中で育ちました。お父さんは子どもが洟を垂らしていると、紙などで拭くと痛いだろうからと口ですすってやるというほどの子煩悩でしたが、他方でとても短気な性質でしたから、お母さんは子どもたちのことで縮み上がるようなことがしばしばありました。子どもの誰かが時にひどい風邪や、扁桃腺炎、気管支炎、下痢などで発熱すると大変でした。お父さんが帰宅して、子どもが病臥でもしていようものなら、お母さんは身の置き所もないほど責め立てられるのでした。それで、子どもたちは幼な心にもこの父親の気性をのみこんで、なるべく風邪をひくまいと気をつけるように育ったのでした。ところがある時、綾子さんのすぐ下の弟鉄夫さんが急性大腸カタルなって、市内の大きな病院に入院しました。そのとき、「今夜が山です」と言われたお父さんは、病室の前の廊下に両手をつき、額を床にすりつけて一心に祈り始めました。常日頃、「病院の中はばい菌だらけだから、そんな所で拾ったお菓子など、決して口に入れてはいかん」と言っていたお父さんが、あろうことか病院の廊下に額をすりつけたのです。息子娘たちはその姿を呆然と見ていましたが、綾子さんは、思わずお父さんにならって廊下にひざまずきました。
   綾子さんは言います。
「あの夏の夜、十三歳の弟のために、なりふりかまわず祈った父の姿を見たことは、私たちきょうだいにとって大きな幸せではなかったろうか」
   尊大な権力者のようでいて、こんなにも、がむしゃらな熱い愛を持ったお父さんでした。だから多分、綾子さんがのちに信仰を与えられて「父なる神さま」と呼ぶようになったとき、この父の姿はいつも綾子さんの心に光となっていたのではないかと思います。子どもたちを呆然とさせるこの土下座。この父の姿の中に、綾子さんは神の愛の形をやがて見るようになったと思います。神さまも愛する子どもたちのために、なりふり構わず汚いところに額をすりつけて土下座してくださる方だと。綾子さんはこの父に習おうとしました。『塩狩峠』の永野信夫の父貞行など、作中人物にも時々土下座をさせていますが、綾子さん自身の土下座癖もここから来ていたのかも知れません。
   父鉄治さんは、『氷点』を読んだとき、陽子が生き返ったようだと喜んだそうです。陽子は綾子さんの六歳で死んだ妹です。綾子さんはその名前を『氷点』の主人公につけたのです。お父さんは、早く陽子の物語の続きを書いてくれと綾子さんに言っていました。お父さんにとっては、十人の子どものうち、この陽子だけが大人になれないうちに死なせてしまった子でした。お父さんの中には、きっと「陽子、お前を弱く生んですまんかった」という心があったでしょう。だから、『氷点』の末尾のあと、陽子が死んだのか助かったのか知りたい、陽子がそれからどんな人生を送ってゆくのか、書いてほしいと思ったのです。
   『続氷点』の連載が始まったのは1970年5月。鉄治さんが亡くなって一年後のことでした。鉄治さんがそれを読むことはできませんでした。それでも、この父と一緒に病院の廊下に額をすりつけたこの娘は、だからこそ、この父のためにも、書かねばならなかったのです。燃える流氷の炎の前で、真の救いへと至る陽子の物語、こんな自分なら生まれなければ良かったと、自分の生まれを呪うところから始まって、犠牲をもって自分を愛して産んでくださった方に「ごめんなさい」と「ありがとう」を言えるところまでたどり着く道のりを。六歳で死ぬような人生だった陽子が、少なくとも二十年の人生を与えられて、生まれてよかった、生んでくれてありがとうと思うところまで、物語は必要だったのです。辻口陽子のためだけでなく、堀田陽子のためにも、この結末を読むことなく亡くなった父のためにも。
   危険なウイルスに感染しそうな世界中の病院の廊下で、子どもたちのために土下座して額をすりつけて祈る父が、今日もおられる。そんな気がします。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。