「お前の手に負える額ではない」―“馬鹿正直”な人の普通のお正月

   昭和三十八年元日の夕べ、棚卸しでくたびれたわたしは、わたしの父母の所に年始に行った。父母は、わたしの住むすぐ近所に越して来ていた。わたしが長年療養したことも、祟ったのだろう。家も土地も売り払い、五軒長屋のような、小さなアパートに移り住んでいたのだ。年も七十を過ぎてから、長年住み馴れた家屋敷を手放すことは、どんなにつらかったことだろう。六間の家から、階下ひと間、二階二間の、小さな家に、父母は末弟夫婦と住んでいた。ただの一度も、
「お前の病気のために、こんな所に越して来た」
   などと、父母は言ったことがなかった。それだけに、わたしは一日も早く、父母の住む家を建てたいと、心ひそかに願っていた。それに、父にはまだ借金があるらしいことも、うすうす感じて心にかかっていた。返せるものなら返してあげたい。そう思って、時々、「おとうさん、借金はどのくらいあるの?」
   と尋ねたが、父は、
「お前の手に負える額ではない」
   と言って、笑うだけだった。   (『この土の器をも』二十七)

   彼女が雑貨店を始めたのは昭和三十六年の八月一日でした。一年目は赤字で、「くたびれもうけだ」と夫に言われました。二年目には体力もついてきて収支も改善しトントンになりました。大晦日は、お店が終わってから、十二月三十一日現在でと税法に定められた通り、“馬鹿正直”に棚卸しをしました。飴玉何個、鉛筆何本、菓子何グラムまで何百種類の商品を全部数え量って、ノートに記録してゆくと、深夜になりました。
 そして、翌日は夫が体調不良だったので、クリスチャンの彼女は一人で教会の元旦礼拝に行きました。そして夕方になって、両親を訪ねたのです。彼女は長年の闘病の末、数年前に癒されて結婚し、今は雑貨店を営んでいました。病弱ながら勤勉で優しい夫と二人、暮らしていました。でも自分が長く療養していたこともあって父親に少なくない借金があることを、申し訳なく思っていました。家も土地も売り払うことになったのに、泣き言も恨みごとも言わない両親に、娘は何とか恩返しをしたい、恩返しはできなくてもその借金だけは、できるものなら返して上げたいと思っていました。
 父親は娘に借金の額を問われても、笑って答えませんでした。病弱な娘が癒されて結婚できただけでもありがたく思っていましたし、心配してくれるだけで、娘の優しさになぐさめられるのでした。
 普通の人の普通の生活。そしてちょっと馬鹿正直で、ちょっと思いやりの深い人々の普通の大晦日とお正月でした。

 この年末、私の家には何度も笠地蔵さんが来ました。何も良いことをしていないのに、お米やお餅や野菜や果物や、たくさんの物が届けられました。玄関にドサッと。そして時には、いわば後ろ姿がうっすらしか見えなくて、誰がなぜ持って来てくださったのか分からないという場合もありました。
 昨日朝は、多分-24℃位まで下がったかと思います。玄関は厳寒で、内側まで霜で真っ白で、濡れた雑巾でも取れないどころか、熱くなければひっついてしまいそうでした。ピンポンが聞こえて、出てみると郵便局員の姿をした笠地蔵さんが言います。
「森下さんですか?書留です。こちらに印鑑かサインを、フルネームで」
 今にもアパートを追い出されそうという状況ではありませんが、「ああ、安心して年が越せる。ありがたい」と思いました。お手紙もついていて、
「秋から来られている新しい方に『道ありき』をプレゼントしたところ、三浦綾子さんの作品に興味を持たれ、次々と読破しておられます。そして先日、聖書を購入して、今熱心に読んでおられます。光世さんと綾子さんの祈りが、今もなお生命あるものとなっていることに励ましを得ています。この冬は寒さが厳しくなりそうですね。同封しました献金は、どうぞ森下先生個人の御用にお使い下さい。良き新年となりますように」
   と書かれていました。北陸の小さな教会からでした。今年は伺えなかったし、その代りに何かしてあげたのでもありません。『道ありき』も私が差し上げたものではありません。私は全く何もしなかったのです。お手紙にあるすばらしい事件にも私は出てきません。何の関係もないのです。「光世さんと綾子さんの祈りが、今もなお生命あるものとなっている」と思われたので、私を思い出されただけです。
 これは昨日あった一つのことに過ぎません。笠地蔵さんが運んでくるものは正当な代金や謝礼の類ではありません。だから、それは実際には返さなくてもよいかもしれないけれど、借金です。この心に積ってゆく借金です。でもそれは冷たい借金でなくて温かい借金です。冷たい借金は人の心を凍らせますが、温かい借金は、責めながらも心の中で静かに燃えてくれます。
「おとうさん、借金はどのくらいあるの?」
   と、今日は問われているような気のする元日です。そして、もう一つの声が、
「お前の手に負える額ではない」
   とも言ってくれています。もう答えは出ているのです。私の手には負えないのです。返せもしないのです。そんな額ではないのです。そんな力はないのです。では誰がどうしてくれるのですか?と叫ぶしかありません。

   父親の借金は、馬鹿正直に生きてへとへとに疲れている彼女の手には、到底負えるものではないものでした。でも、それを、引き受けて、静かに始めて下さり、最後には圧倒的な力で成し遂げて下さる方が、そこにはおられました。

   新年の挨拶をし、僅かなお年玉を進呈した後だった。母が思いついたように、
「あ、そうそう、秀夫がね、綾ちゃんが来たら、ここを見せなさいと言っていたよ」
 と、折りたたんだ朝日新聞をわたしに示した。見ると、朝日新聞の社告だった。  
                                                            (『この土の器をも』二十七)

 それは、馬鹿正直と、痛める心を持っているだけの、普通の人の普通のお正月の物語なのでした。
   私はここを読んで思いつき、お年玉がないのは申し訳ないけれど、昨年父が亡くなって一人になった故郷の母に電話をしてみることにしました。

 ※写真、上は冬の氷点橋から見た見本林の方向。下は『氷点』の賞金の一部で建てられた家の表札。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。