紅葉の観音台でお墓デートしましょう
観音台は三浦夫妻のお墓がある丘です。観音台への道はいくつかありますが、市街からは両神橋を渡って神居に入り、一番山に近い通りを南東に進んで、伊の沢スキー場を過ぎてすぐのところから上がって行くのが車での一番一般的な道になります。
私たちは伊の沢スキー場の手前から上って、スキー場のすぐ上を通る別の道をあるきました。車も問題なく通れますが、少し狭いです。
伊の沢スキー場です。ロープを掴んで登るリフトがあります。『氷点』で陽子と徹が正月には毎年滑りに来るスキー場です。
ここからは市の中心部、神居、神楽、旭川駅などが遠望できます。手前の林が見本林、向こうの林は神楽岡公園になります。
観音霊園 神居町富沢409-4 神居、神楽、忠和などの地域の宅地開発を手がけた高野観光開発によって造成されました。1965(昭和41)年7月に設立許可、墓所設置許可が下りて始まり、その後園内の施設が出来てゆき、2013(平成25)年には公益財団法人の認定を受けています。
今日は盆の十三日だ。いま恵理子は、祖母のツネと、母の保子の三人で、観音台の霊園にきた。観音台は、香也子たちの住む高砂台と丘つづきにある。南東に十勝岳の秀峰が見え、その手前の丘の斜面には銀色の送電灯が日にきらめいている。二万坪の霊園の真ん中を通る広い舗装路の両側は、マリーゴールドの花にまじって、真っ赤な鷄頭が燃えるようだ。(『果て遠き丘』)
上記の文に書かれている広い道を行くとほぼ正面に園内案内図があります。この図の右下の自由1区に三浦夫妻のお墓はあります。つまり正面つきあたって右に曲がって坂を下りてゆき、それからまた突き当って左に曲がって坂を下りた左側すぐにあります。
三浦光世・綾子の墓 揮毫はすべて光世さんです。 上の写真の右上の看板のところを左に降りてゆきます。
綾子さんが召された翌年の2000(平成12)年8月、光世さんが建てたと墓碑裏に刻まれています。墓には初めから二人の名前が彫られていました。
左右にはそれぞれがお互いを詠んだ短歌が一首ずつ彫られています。
「いつきても、ここは公園みたいだね」(略)
どの墓の敷地も一律に二坪で、御影石の墓石も和洋のちがいこそあれ一定している。
“藤戸家の墓”と書いた墓の前にくると、ツネが言った。
「おじいさん、またデートにきましたよ」(『果て遠き丘』)
墓参りがデートって、素敵ですね。10回も浮気をした困った夫でしたが、それでも、“デート”と言えるおばあちゃんでした。
恵理子はバッグからビニールの風呂敷を出して、墓石の前の芝生に敷いた。いつも墓参の時は、この墓の前で食事をとるのだ。(『果て遠き丘』)
墓参りの度にいつもお墓の前で食事をするのは、良い習慣でしょう。食事を共にすることは、古今東西、聖書でも、心を共にすることであり、心新たに約束することでもあります。
「おばあちゃーん」
香也子がうれしそうに手をふっている。その傍に、容一と扶代が、ばつの悪そうに立っているのが見えた。(『果て遠き丘』)
橋宮家はここには墓はないので、香也子の何か企みの一部なのでしょう。
『あのポプラの上が空』の谷野井家には仏壇がなく、お墓もないと設定されています。まだ死んだ人がいないからではありますが、それは、札幌中心部で病院と薬局を営むこの家の人間が死の世界やこの世を超えた世界を意識せずに生きており、目に見えない人格を意識する習慣もないことを言っているでしょう。
この中で、谷野井家とは赤の他人である「炊事主任」の林余里子だけが、毎年旭川の観音台にある夫の墓参りに出かけ、谷野井家の二人の娘たち初美と景子も一緒に行きます。林余里子は小さい時に母が死んで、よそにもらわれて育ったという45歳のキリスト者です。彼女は看護婦をしていたときに出会った、末期の胃癌患者だった林光次郎という余命宣告されながらも周りの人々を笑わせ続けたクリスチャンと結婚してクリスチャンになりました。彼が死ぬのを分かっていて結婚して、二年余で未亡人になりました。墓に既に二人の名前が彫られているのを見た惇一は「自分の名前まで刻みこんだ妻の生きる姿勢は凄い」と思います。半分死んだものとして生きること。死んだ者とつながれつつ、死んだ者に支えられつつ生きること。それは天国につながれつつ、天国に支えられつつ生きることでもあるでしょう。
この余里子の料理はとても美味しくて、いのちを養うことのできるものがあるようです。この余里子が、辛うじてこの家の人間をつなぎとめている要の存在です。不思議な暖かさもある人物ですが、他方で、彼女は時に激しい言葉を語ります。
「アーメンって、信じた者は皆十字架にかかるわけでしょ。あれは業たかりの人間には、ちょうどいい信心じゃないかしらね」
惇一はそれを聞いて、核心を衝いている凄みのある言葉だと思います。罪とその報いとしての罰。それが、ハエがたかるように群がり集まっている。そこに十字架が必要であること。その中心のところを語る余里子は、断末魔的状況に陥ってゆくこの谷野井家の救いを祈る唯一の存在です。彼女の中にはいつも林光次郎がいたのでしょう。彼は彼女には光だったのです。だから余里子の墓参りも彼に会うためのデートだったのです。そしてたぶん「光次郎」は、綾子さんの中では「光太郎」の弟という命名なのでしょう。
この観音霊園には堀田家の墓もあります。綾子さんのお父さん、お母さんから入っています。お母さんのキサさんが建てて、長男道夫さんが継いで、更に金星ハイヤーで運転手をなさっているその息子さんが継いで管理しておられます。裏には菊夫さん、陽子さんらの名前もあります。
二つの小説の舞台としては、このお墓がモデルなのだろうと考えられます。キサさんがここにお墓を建てたのが1969(昭和44)年6月17日、『果て遠き丘』が1977(昭和52)年8月年刊、『このポプラの上が空』が1989(平成元)年9月刊です。その頃には、自分のお墓もここに出来るとは綾子さんは思っていなかったかも知れません。
章子は霊園の向かいの芝生にはいった。広い芝生の緑が日に輝き、その一隅に花時計があった。芝生につづいて、柏の木立の茂りが美しい。木立越しに子供たちの声が賑やかだ。木立のむこうは遊園地だ。猿や兎や鹿などもいるのだ。(『果て遠き丘』)
今は花時計はなく、動物たちもいませんが、木立は変わりません。
この霊園から300メートルほどの所にりんご、さくらんぼ、なしなどの果樹を栽培している河田農園があります。秋にはりんごを買いに来る人が次々と訪れます。皆さん車です。徒歩は我が家だけ。リュックに入れて背負います。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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