いたましくも尊いこと ー 文珠分教場の子どもたちとの別れ

 1941(昭和16)年8月25日、歌市内の神威小学校文珠分教場の二学期の始業式に合わせて離任式がありました。秋から堀田綾子先生は旭川の啓明小学校に移ることになったからです。16歳11か月から19歳4か月までの約2年半、人生で初めて家族と離れて住んだ地神威を、綾子さんは去りました。

   A子は体は大きいが、走ることも遅ければ、縄跳びも下手だ。地上二十センチの高さともなれば、彼女はもう、輪ゴムをつないで作ったそのゴム縄に、足をひっかけてしまう。それで大抵は縄を持たされるわけだが、それでも彼女はいつもニコニコしていた。そのあどけない笑顔は、どんなにわたしの心を慰めてくれたことだろう。
 「A子ちゃん、ちょっといらっしゃい」
 と呼ぶと、彼女はよたよたとわたしの所にきて、その大きな頭を、よく胸にこすりつけたものだった。何の用で呼ばれるのかは、A子にはわからない。呼ばれたことがただうれしくて、頭をすりつけてくる。彼女にはそれしかできなかった。いや、それは知恵ある子には決してできない、すばらしい行為ではなかったかと思う。他の子なら、教師に呼ばれると、何の用で呼ばれたのかと、ちょっと不安顔になったり、緊張したりする。が、彼女にはそうしたことは一度もなかった。
 その後彼女は二十にもならぬうちに死んだというが、
   「何でこんな知恵遅れに生まれたの」
   と、親をも、神をも、恨むことすらしないで死んだ彼女の一生を、わたしはいたましくも尊いこととして、文珠の地を思い出すたびに思うのだ。 (『石ころのうた』七章)

   離任式で一人一人の姿を胸に納めるように見つめながら、綾子さんは涙をとどめることができませんでした。子どもたちも皆が打ち伏して泣いている中で、A子だけが姿勢を正して泣いていました。両手の指を開いて顔に当てて、綾子さんの顔を見つめたまま、その涙をぬぐうこともせず、滝のように流れる涙のまま、泣いていました。自分の名前を書くだけがやっとで、一に一を足すことすら出来ないA子でした。それでも別れるということの悲しみを知っていたのでしょうか。後々までも、綾子さんは胸の詰まるような思いでA子を思い出しました。
   綾子さんはこの地で初めて社会人として生活しました。教師、子どもたち、その親、地域の人たちと出会いながら、世界(社会)に出会い、社会や時代の中で生きる人間として少しずつ眼を開かれ耳を開かれ、成長してゆきました。
   しかし、後に作家になってゆく綾子さんがこの地で体験して学んだ最も重要なことの一つが、このA子の思い出にあるように思います。それはまず何よりも、人間の生を「いたましくも尊いこと」として覚えるということです。次には人の言動や表情を正確に見つめ覚えつつ受けとめて、その心を探り普遍的な真実を見出すことです。第三はそれとほぼ同じことですが、言葉にならない言葉、声のない声を聴こうとすることです。名前を呼ばれたことがただうれしくて、よたよたと、けれど一心にやってきて、その大きな頭をこすりつけてくるような心を、胸の深い所でこすりつけられ、痛むほどに刻まれること。それは、良いものを書くために最も不可欠なものだったはずです。
   そして、この日学んだもう一つの大事なこと。それは別れの日が来るということです。どんなに愛していても、必ず別れなければならないのです。だから、いつどんなふうに取り去られ、あるいは断ち切られてもよいように、心をこめて、命を注いで、愛さなければならないこと、「痛ましくも尊い」その存在を、具体的な細部の姿や言葉や色合いや匂いにおいて、一生抱きつづけていられるほどに胸の奥に刻むこと、たぶん何らかの物語として。―― 自分の人生も、出会った人の人生も大事にするって、きっとそういうことなのでしょう。
   今、岡山県で私の父が死のうとしています。おそらく、もう間もなくです。でも、その病院では県外者の面会は許可していませんから、会えないままになるでしょう。だから、彼の人生の具体的な細部、その姿、その生き方の中にあったはずの真実を、お前は今まで息子としてあるいは同じ男として、あるいは人間として見出して、胸に刻んできたか?と問われる日々でもあります。「痛ましくも尊い」ものであるはずの一つの生とその生が放つ光芒を、ありありと、どのようにか、少なくとも胸の中に「痛ましくも尊い」ものとして、再現あるいは物語として(小説にするという意味ではありません、そのドラマを通して普遍的な真実の方向が見えてくるということでしょうか)再構築できるか?と。
    ※上の写真は歌志内市神威文珠の旧炭鉱住宅。下は神威小学校跡地の碑。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。