江部乙のりんご園-『青い棘』緋紗子のふるさと

   10月19日、文学館の三浦文学案内人近藤弘子さんの車で、旭川から南へ45キロの滝川市江部乙(えべおつ)に行ってきました。現代小説『青い棘』の主人公・邦越康郎(くにこしやすろう)の最初の妻・緋紗子(ひさこ)のふるさととして書かれているので、一度訪ねてみたいと思っていたのです。

   緋紗子は江部乙で一番大きなりんご園の三人娘の末娘でした。 
  ネットではりんご園についての充分な情報が得られなかった私たちは、まず江部乙駅すぐの道の駅に行きました。ここなら観光パンフや付近の観光ガイド地図などがあるだろうと期待したからです。ところが、くまなく探してもパンフもガイド地図もありませんでした。

   それでも、半分地元野菜の朝市になっているフロアに、りんごを売っている農家の人らしい初老の男性がおられるのを発見した私たちは、もう、この人に訊くしかない!と、声をかけました。「私たち、旭川から来ました。三浦綾子さんをご存知ですか?三浦綾子さんが書いた『青い棘』という小説のヒロインが江部乙の一番大きなりんご園の娘という設定なんです。……」

   勿論フィクションの小説ですし、緋紗子のモデルは綾子さんの友人であることがエッセイ『それでも明日は来る』に書かれていますから、更にぴったりのモデルの女性が見つかるとは思いませんでしたが、りんご園についてはモデルとなった農園や地域があるはずです。それで僅かな自前の情報と、道の駅でお話をうかがった方からの情報を合わせてみた結果、そこから東へ延びる道沿いの島津農園に行ってみようということになりました。
  昭和19年5月のある日の深夜、札幌の女子医専在学中だった香川緋紗子の下宿を訪ねてきたのは、恋人の邦越康郎でした。  昭和18(1943)年の今日、10月21日は、今に語り継がれる学徒出陣の日でした。雨の明治神宮外苑陸上競技場にて文部省主催の出陣学徒壮行会が行われましたが、『青い棘』の主人公で当時北海道大学在学中だった邦越康郎は、この前月、既に海軍に志願していました。

   海軍に入って9か月目の昭和19年5月、一時帰郷を許された康郎は、その夜、もう二度と会えないかも知れない緋紗子の顔を胸に刻み込むように見つめました。その彼を緋紗子も涙の盛り上がる目で見つめました。「さようならを言いに来た」という康郎に、緋紗子は「康郎さん! たとえ手一本、足一本になってでも、必ず生きて帰って来て」と訴えました。

※島津農園では、りんごの芳香が満ちた作業用の納屋に農園のご主人と、ちょうど訪ねて来られた妹さんがおられ、いろいろとお話を聴くことができました。かつては北海道でも最も有名なりんご産地だった江部乙ですが、今ではりんごを作る農家は20軒ほどになってしまいました。島津さんでは予約でほぼすべて出てしまうので市場には出荷していないとのことでした。この日は“昴林(こうりん)”という品種が収穫されていて、少し頒けていただくことができました。甘みと酸味が絶妙でとても美味しいりんごでした。

   隊に戻った康郎は、集合の命令が下ったとき、軍靴の紐がほどけたために、いつもになく後列になり、そのためにサイパンで死ぬ運命を逃れる結果になりました。そして昭和20年2月、広島県江田島の兵学校の砲術教官になりました。2か月後、婚約者を持つ者は結婚せよとの命令が出たとき、それを聞いた緋紗子は直ちに札幌から江田島に駆けつけました。昭和20年4月、既に日本各地の都市に間断ない空襲があり、緋紗子の乗った汽車は燃え盛る姫路の駅を突き抜けて来ました。

緋紗子は着替えを入れたリュックサック一つを背負い、江田島に着いた。その中には、僅かな乾パンと、国木田独歩の『武蔵野』一冊、そして小さな聖書があった。

   小柄な緋紗子は康郎の胸の中で、「来たわよ。火の中をくぐりぬけて」と幾度も言いました。一日一日が生きているという充実感に満たされて、何もない家の中で二人は生きました。7月、防空壕から這い出た緋紗子は目の前で軍艦榛名が撃沈されるのを見てから、しきりに、美しいものが見たいと言い始めました。

「海でもない、山でもない、川でもないわ。わたしはこの目で、今、日本の滅びを見ているような気がするの。ね、この戦争を起こしたのは誰なの? ね、誰なの?」「ねえ、誰がこんな戦争をしてもいいと許したの。戦争を許す権利が人間にあるのかしら」

   終戦前夜、8月14日の夕刻、緋紗子は5時発の船で呉に行き、江田島7時着の便で戻ってきました。しかしその帰途乗っていた船が機雷に触れたために、緋紗子は亡くなりました。緋紗子は船から夜光虫を見たかったのでした。19歳でした。

   30年を経て、康郎は緋紗子がそのとき妊娠していたことを知りました。

(そうか。緋紗子は、それで美しいものが見たかったのか)

   終戦後、康郎は緋紗子の骨を寺にも預けず、墓にも埋めず、自分の下宿の机の上に置いていました。あまりにも短かった結婚生活を埋め合わせるかのように、せめて遺骨と共に暮らしたかったのでした。
   しかし、再婚が決まって、緋紗子の親に知らせると、親たちが来て、「こんなものを持っていては次のお嫁さんが気味悪がりますよ」と言って引き取ってゆきました。康郎には骨箱を手放したくない思いもありましたが、緋紗子の遺骨は江部乙のりんご園の傍にある墓地に埋葬されました。

※遠く雨竜や新十津川の方まで眺望できるこの広い墓地から一番近いりんご園が前述の島津農園です。
   物語では、その後、緋紗子の両親も亡くなり、りんご園は緋紗子の長姉が婿を取って、継ぎました。

    緋紗子の死因は水死でした。機雷に触れた衝撃のために海に放りだされたのでした。

    緋紗子の死に顔は美しかった。その緋紗子の死体がまだ家の中に横たわっている間に、八月十五日の天皇の放送があった。……「なぜ生きていなかった。なぜ生きていなかったのか」死んだ緋紗子の肩をゆすりながら、号泣した八月十五日が、今年もまた近づいていた。

   緋紗子の美しさとは何だったのでしょうか。綾子さんはなぜ、緋紗子をこの江部乙のりんご園の娘という設定にしたのでしょうか。
   緋紗子のふるさと滝川市江部乙は「日本で最も美しい村」に選ばれています。石狩川の肥沃な土地を活かした田園が広がり、春にはナタネ採取のための菜の花が栽培され、高台では秋には甘酸っぱく香るりんご園が点在しています。※下の写真は江部乙の東側にある丸加高原。
   NPO法人「日本で最も美しい村」連合は、2005年に7つの町村からスタートしました。平成の大合併で小さくても素晴らしい地域資源や美しい景観を持つ村の存続が難しくなってきた時期でした。運動は「フランスの最も美しい村」に範をとり、失ったら二度と取り戻せない日本の農山漁村の景観・文化を守りつつ、最も美しい村としての自立を目指す運動をはじめました。入会には資格審査が必要で、更に5年ごとに最も美しい村づくりの基本理念が継承されているか、より美しい村づくりを目指して運動が定着しているかが再審査されます。北海道では、中札内村、美瑛町、江差町、標津町、清里町、黒松内町、京極町、赤井川村、鶴居村が認定加盟していて、福島県の飯館村も入っています。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。