国境の河は深い
国境の河は深い ― 19歳の難民ディヴォクのうた
国境の河は深い。
昼間に、河を渡ろうとして、ぼくたちは、銃で撃たれる。
国境まで、ぼくたちは、長い長い旅をしてきた。
あれはいつだったのか、思い出せないほど昔のような気がする。
ぼくたちは、ある日突然、故郷の家を追われた。
埃捲く道を、銃口で命じられるままに、歩かされた。
そうして、当てのない、この長い長い旅は始まっていた。
国境の河は深い。
夜、河を渡ろうとするぼくたちは、水の底に潜む怪物に足を喰いちぎられる。
ぼくたちを故郷から追い出した人間たちは、行き先を告げなかった。
でも、住むところも食べ物もあると、男は言ったのだ。
あの日、誰一人、靴を履く暇のあった者は、いなかった。
国境の河は深い。
どの町でも、ぼくたちは嫌われた。石を投げられて、ぼくたちは逃げた。必死で走って散乱し、あらゆる陰に隠れた。
ぼくたちは歩きつづけた。何も語らないで。それが、たった二つの掟。
止まらずに歩きつづけることと、黙っていること。
脱落して、壊れてゆく者たちは置き去りにされた。家を出て、最初の国境を越えるときに、母さんは死んだ。故郷を出て来たときに、もう壊れかけていたのだ。
そして、しゃべり過ぎる者は、口を殴られた。
どこまで行けば、この旅は終わるのか?
いつになったら、この旅は終わるのか?
誰も知らなかったし、誰に訊けば分かるのかも分からなかった。
ぼくたちは、座れる場所を求めていただけ。
ぼくたちは、眠れる場所を求めているだけ。
なのに、
ぼくたちは、自分が誰だか証明できなかった。
ぼくたちには戸籍もなく、書類の一枚もなかったから。
国境でぼくたちは、名前をなくし、意味のない記号をあてがわれた。
国境の河は深い。
国境の河の向こうの人間たちは、ぼくたちを凶暴だと思って怖れている。
だから、河を渡るぼくたちを探しては、血眼になって、銃を撃ちまくる。
国境のこちらの人間たちも、ぼくたちを町に入れるのを嫌っている。
ぼくたちを暗い貨車に押し込め、早く追い出したがっている。
どうして、ぼくたちが凶暴なの?
ただ、
ぼくたちは、座れる場所を求めているだけ。
ぼくたちは、眠れる場所を求めていただけ。
なのに、
それを与えてくれる人間は、どこにもいなかった。
でも、ぼくは知っている。
ぼくたちを嫌ってる人間たちも、
ほんとは戸籍なんか持ってないんだ。持っててもそれはニセモノなんだ。
ぼくたちを追いたてた人間たちも、
ほんとうの自分の家や故郷なんか持ってやしないんだ。
ぼくたちを殺そうとする人間たちだって、
国境の前で途方に暮れているんだ。深い河を渡る勇気などないから。
国境の河は深い。
ぼくたちは、いつでも簡単に殺される。
時には、国境を踏み越えなくても、ぼくたちは殺される。
国境の内側にも、いつの間にか国境ができているから。
国境では、殺されたって、だれも泣いてはくれない。
国境では、葬りもなく、亡骸は廃棄物になり処理される。
それでも、ぼくたちは、
殺されながら、国境を越えてゆく。
すべての国境の深い河を渡ってゆくほかに、家に着く道はないから。
どこかにある、はずの、ぼくたちの家。
あると言った、あの男は嘘つきだったのか?
国境の冷たい河の水のなかで、芯まで濡れながら、ぼくたちは何度も考える。
どこかにある、かも知れない、ぼくたちの家。その家に着くまでに、ぼくたちは何度、冷たい国境の河を渡らなければならないのか。何度撃たれて、足を喰いちぎられ、何人の母さんを失い、留められ、収容され、裸にされ、記号にされ、何度殺されなければならないのか?
国境の河は深い。
次の国境を越えられるかどうか、それは誰にもわからない。
すべての国境を越えられる者だけが生き残るのだとしたら、誰が死から逃れうるのだろう。
夜ごとに、ぼくたちは夢を見る。
この背中に羽があって、すべての国境を飛び越えてゆく……。
国境の河は深い。
河の向こうにいる、きみ。
河のこちらにいる、ぼく。
故郷では、会いたいと思えばすぐに、走って行けた。ぼくたちは、いつでも会えた。
その二人の間に、国境の深い河がある。
この河を越えられなかったのは、君だったのか、ぼくだったのか?
果てしなく続く、国境線の向こうとこちらで、
ぼくたちは、心の中で呼び合うだけ。
きみとぼくの約束は、いつまでも延ばされてゆく。
国境を越えるインターネットがあるさ、と誰かが言う。でも、そこでも国境は作られて、繋ぐためとおなじぐらい、引き離すためにも使われる。気をつけていなければ、銃で撃たれ、足を喰いちぎられる。
国境の河は深い。
国境ではすべてが狂い始める。
国境の深い河で、国境は作られる。
国境があって良かった、と人々は胸を撫で下ろす。
国境だけが自分たちを護ってくれると思っているから。
それで、もっと大きな、もっと強い国境を作っておこう、と人々は相談する。
そして、そう言いながら、その国境の内側に、いくつも別の国境を作っている。相談し合った仲間との間にも、人々は国境を作り始める。はじめはひそかに、最後は死に物狂いで競争をするように。
そして、家の周りにも、部屋ごとにも、国境を作り、
自分自身の胸の中にも国境を作る。
……そして、すべての国境には深い河がある。
国境の河は深い。
国境の深い河の岸に夜が来ると、子どもたちは焚火をする。
暖まるために、子どもたちは、何もかも燃やす。故郷から持ってきたものも、家族の思い出も、自分自身の名前も。
そうして、国境で待たされる子どもたちの顔は変わってゆく。
故郷に帰って行けたとしても、そのときにはもう別のぼくたちになっていて、
故郷は、それがぼくたちだと、分からないだろう。
そして、もっと凶暴に、もっと弱くなってゆくぼくたちには、もう戻れる場所などどこにもなくなるだろうと、
子どもたちは、うすうす気づいている。
ある夜、国境の深い河を越えて、
あの人は、ぼくたちを迎えに来るだろうか?
ぼくたちの 古い神話のように、
国境の深い河を泳いで。
いつか、きっと。
そう、ぼくたちは信じようとしている。
ぼくたちは、夜になると河の音に耳を澄ます。
暗闇の底から、霧が舞い立ち、川面が見えなくなるころ、
ぼくたちの足を喰いちぎりに来る怪物の咆哮ではなく、
かすかに呼んでいる、
あの人の声を聴こうと、耳を澄ます。
国境の深い河のそばで、
彼が泳いでいるのを聴き逃すまいと、
ぼくたちは耳を澄ます。
……
国境の河は深い。
このブログを書いた人

- 三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
-
1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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