2022年5月16日(月) / 最終更新日時 : 2023年3月4日(土) 森下 辰衛 おたより おたより21 皆さまから頂きましたおたよりから、一部を紹介させていただきます。 講演のご感想、短篇小説「シオンガーデン」のご感想、知里幸恵さんへの感動など、深く丁寧なおたよりをいただき、本当に感謝しています。
2020年12月1日(火) / 最終更新日時 : 2020年12月1日(火) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 小林多喜二、いのちと家族の記憶-三浦綾子、守分寿男の仕事から 1903(明治36)年12月1日、小林多喜二は秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)に小作農家の次男として生まれました。少し古い資料では「10月13日」となっているものが多いようですが、それは旧暦の日付のようです。さて、小林多喜二と三浦綾子との関わりですが、1977年と言いますから綾子さんが『泥流地帯』を書いていた頃だったようですが、光世さんが綾子さんに小林多喜二の母を書いて欲しいと頼みました。
2020年11月10日(火) / 最終更新日時 : 2020年11月11日(水) 森下 辰衛 文学散歩 「あなた、ご飯を食べましたか?」-弟昭夫さんと母キサさん 11月10日は綾子さんの二番目の弟堀田昭夫さんの命日です。1971年 45歳でした。三日前の7日の夜、旭川市永山の見通しのよい横断歩道を横断中、猛スピードの車に撥ねられました。昭夫さんは綾子さんが札幌医大病院を退院するときには、都志夫さんらと一緒に迎えに来て列車の中では寝たきりで外を見ることの出来ない綾子さんのために、今どこを走っているか、時々教えてくれる優しい弟でした。
2020年8月6日(木) / 最終更新日時 : 2020年8月6日(木) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 広島の母、浦上の母 ― 平和の祈りへ 『銃口』で、昭和20年8月21日、北森竜太と山田佐登志曹長は金俊明に助けられて下関へ帰還しました。その後、山田は広島に、竜太は旭川に帰って行きました。その竜太のもとに、しばらくして広島の山田から手紙が届きました。山田は原爆で跡形もなくなった家のあった場所に立って呆然としました。母は死んだと思いました。しかし「絶対この場にいたとは限らない。勝手に決めて絶望するのは止めろ」と言って励ましてくれる人がいました。
2020年5月10日(日) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 海に満ちる光 ― 『母』小林セキの命日によせて 小説『母』の物語は、この半月ほど前の昭和36年4月のある穏やかな日の午後、セキが、訪ねて来た人に向かって自分の一生を物語るという形式を採っています。この語りの舞台、セキが晩年を過ごした場所は、多喜二の姉である長女チマの嫁ぎ先である佐藤家の離れでした。眼下の小樽の海から石狩湾を挟んで向こうに「増毛のほうの山」が見えました。
2020年5月7日(木) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 三浦綾子と天国の希望 上 綾子さんが天国というものを初めてはっきりと意識したのは、前川正さんが亡くなった時だったと思います。『道ありき』にはこう書かれています。 わたしはその時になって、初めて天国を思った。昨年の七月、敬愛する西村先生を失い、それから一年もたたぬうちに、前川正も天に召された。当時のわたしは、この世よりも、天国のほうが慕わしく思われてならなかった。
2020年4月25日(土) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 綾子さんに「生まれてくれてありがとう」 今日は綾子さんの誕生日です。誕生から小学校卒業までを書いた自伝『草のうた』、初出は「わたしは、一九二二年(大正十一年)四月二十五日の朝、北海道旭川市四条十六丁目左二号に生まれた。わたしが生まれた時、すでに兄が三人、姉がひとり、そして、姉のようにして育った叔母がいた」と書き始められています。
2020年4月16日(木) / 最終更新日時 : 2020年7月4日(土) 森下 辰衛 三浦綾子を読む ご当地チロル よいとまけ 発見! “ご当地チロル よいとまけ”を旭川市内のスーパーマーケットで発見しました!よいとまけを作っているのは小林多喜二の伯父さんが創設した会社です。