綾子さんに「生まれてくれてありがとう」

   今日は綾子さんの誕生日です。誕生から小学校卒業までを書いた自伝『草のうた』、初出は「わたしは、一九二二年(大正十一年)四月二十五日の朝、北海道旭川市四条十六丁目左二号に生まれた。わたしが生まれた時、すでに兄が三人、姉がひとり、そして、姉のようにして育った叔母がいた」と書き始められています。ところが、現在私たちが読む『草のうた』では、この部分は次章に回されて、代わりに冒頭には三歳ぐらいの綾子さんが祖母と一緒にお風呂に入った思い出が書かれています。
   母の母、祖母エツさんは水仕事に荒れた手で幼い綾子さんを抱き、「昔々ねえ」と、お話を聞かせてくれました。エツさんはたくさんのひと口話やおとぎ噺を知っていて、「あのね、ある所にとっくりがいたんだと。そこに玉ねぎが遊びに来たんだと。二人でお風呂に入って、玉ねぎがお風呂を出ようとしたら、とっくりが、『たまたまきたんだもの、とっくりと入って行きなさい』と言ったんだって」といったひと口話を話してくれました。綾子さんは、それを何度聞いても飽きることがなく、聞くたびに笑ったのでした。
   この祖母は小学校に行けずに育って字が読めませんでした。孫たちが絵本をひろげて、祖母の膝に坐ると、祖母は恥ずかしそうに「バッちゃんはね、ちっちゃい時、学校行かんかったから字が読めないの。ごめんね」と言うのでした。それでもおとぎ話や、講談、浪花節などを沢山知っていて聞かせてくれました。女学校時代、こっそり映画館につれて行ってくれたのも祖母でした。綾子さんは晩年のエッセイ「生きていることをすまながった祖母」(『遺された言葉』所収)で、この祖母が、乞食が来ると喜んで迎えて話しこんでいたこと、そのために祖母の知識は豊かだったこと、乞食が立ち上がると「あれ、もう帰るのかね。また来てや」と、優しく声をかけていたことなども書いています。
   祖母に対する、限りなく慈しむような、穏やかに憧れるような、深い敬愛の気持が良く表れているこの文章は、三浦文学の源流を明かしてくれてもいます。この祖母の腕に抱かれながら、文字ではなく、声をもって語りかけられる歌と物語によって、三浦文学は、その文字通りの揺籃(ゆりかご)の時代を養われていったのです。単に意味を伝える道具としての言語とは全く違う豊かさを持った声による言葉が、肌の温かみや懐かしい匂いと共に、或いは祖母その人の生き様の中から語りかけてくるのを、幼い綾子さんの魂の耳は聴いていました。多くの人の幼時の体験と同様、幼い綾子さんにとって物語は読まれるものであるよりも、語り聞かされるものであり、また言葉は伝達される意味内容であるよりも、語る人そのものであったのです。この逸話を通しても、幼い子どもたちへの絵本の読み聞かせや語り聞かせが、ことばの喜びや物語の楽しみを共にしつつ体験させることで精神と人格を養ってゆく営みであることが見えてきます。それはまさに「生まれてくれてありがとう」の行為です。祖母エツさんは綾子さんに、そのようにしてくれた人なのでした。周知のように三浦文学は『塩狩峠』以降、図らずも口述筆記という執筆方法において実際に〈語られる物語〉でしたが、実に根源的にも一個の人格が全存在を賭けて己が声で語るところの物語であったのです。
   小説『銃口』には、小学校の朝礼のとき、一年で一番心に残ることは何だったかと尋ねられた子どもたちが、猫が死んだことやおばあちゃんちに行ったことなど生活に密着したことばかり挙げて誰も日本軍の南京入城を挙げないことに、校長が怒り狂う場面があります。聖書には「文字は殺し御霊は生かす」(Ⅱコリント3:6)という言葉がありますが、生活を離れた言葉の空々しさ、のみならず恐ろしさは、例えば「皇国民の練成」といった上からの「文字」を自らに課し、子どもたちにも押付けていたという痛恨の体験の内にも、綾子さんはよく知っていたのです。
   庶民への共感、殊に苦難の中を歩む底辺者への共感は三浦文学の大きな軸ですが、この〈乞食に聴く〉祖母の後姿に綾子さんが学んだことは、底辺者と対話し、その心の声を聴き、学ぶことでした。〈乞食の言葉〉は、綾子さんにおいては子どもたちの綴り方の言葉であり、或いは泥流被害体験者の言葉であり、また息子を特高に虐殺された母の言葉でもあるでしょう。何故なら、そこにこそ人間と世界の真実があり、人生と社会の真実を照らし出す光源となりうる、まことの言葉があったからです。そのようにして庶民の中に探り学んだ真実と、綾子さんが人生の中で出会った真理、そして聖書の言葉の真理が結び合う所に、三浦文学の最も命に満ちた豊かな言葉が溢れてきます。
   『草のうた』で綾子さんは「綴り方と言うものは、このような生活から生まれ出るものでなければならない、血と涙と喜びが通っているものでなければならない」と語っていますが、綾子さんが今日、生きていたら、きっと新型コロナのためにいろいろな形で苦しみ怯えている人、愛する人を奪われた人、差別されながらも必死で〈生きようとしているいのち〉や、そのいのちに寄り添っている人たちの声に耳を傾けたことだろうと思います。
   2015年、16年と私は旭川医科大学で非常勤講師として講義をして、三浦綾子は勿論、長崎原爆の永井隆、水俣病の原田正純、マザーテレサ、フランクルなどを紹介しました。あれから四年経って看護学部の学生さんたちはもう殆どが現場に出て行って働いていることでしょう。医学部の学生さんは学びの終盤ですが、実習先にいるかも知れません。北海道がんセンターなどでクラスターに巻き込まれていないかな?などと案じてもいます。しかしそうであっても、「個人的にあるいは職務の上で、どうしたらいいか分からないような酷い苦難に立たされるとき、支えと希望になる何かが、生きる指針になり、にもかかわらず愛する力になる何かが、彼らの中に残ってくれますように」と毎回祈りつつ語っていたことを思い出して、また祈っている今日でもあります。
   綾子さんが天に召されたとき、芸術の城を護ろうとして衰微しつつあったこの国の文芸誌はこぞってそれを黙過しました。しかし、寄り添う愛をもって命の限り語り続けてくれたこの人の言葉を心の耳で聞き、励まされることを体験した者たちは、「ありがとう」の大合唱を叫んだのです。今日は綾子さんに「生まれてくれてありがとう」と言いたい日です。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。