2021年3月18日(木) / 最終更新日時 : 2021年3月20日(土) 森下 辰衛 おたより おたより⑮ 最近いただきましたおたよりから、いくつかをご紹介いたします。ここ二か月ほどブログ記事は冬眠状態でしたが、そろそろ春。穴から出て来る熊のように眠りから目覚めたいと思います。たわいないと思えることでもうれしく励まされますので、お便りください。
2021年1月10日(日) / 最終更新日時 : 2021年3月20日(土) 森下 辰衛 おたより おたより ⑬ 皆さまからのおたよりの一部を紹介しました。 クリスマスの、しみじみとうれしいおたよりも、お励ましもいただきました。
2020年12月19日(土) / 最終更新日時 : 2020年12月19日(土) 森下 辰衛 文学散歩 初冬の峠 ― 塩狩駅存続を願って和寒町へ 和寒町の子どもたちはひと学年が20人ばかり。過疎の町の厳しさも感じましたが、それだけに郷土愛を持ってほしいという願いもひとしお。それで、「どうでしょう、私たち三浦綾子読書会は若い方々に『道ありき』を贈呈しているのですが、和寒町の中学生のみなさんにプレゼントさせていただけないでしょうか?或いは『塩狩峠』でも大丈夫です」と、勝手に話をすすめるのが、代表の悪い得意技。
2020年11月25日(水) / 最終更新日時 : 2020年11月25日(水) 森下 辰衛 三浦綾子 あんたはわしの同労者や!-川谷威郎先生の思い出 11月25日は川谷威郎(かわたにたけお)先生の命日です。2009年80歳でした。旭川六条教会の牧師を務めたのは1961~76年の15年で、『この土の器をも』などによれば、綾子さんは1963年『氷点』を執筆中、人間の社会はなぜこんなにも幸福になりにくいのかと考え、罪の問題につき当たりました。そのとき、彼女の思索の支えとなり、多くの示唆を与えたのが、旭川六条教会の川谷威郎牧師の説教でした。
2020年11月18日(水) / 最終更新日時 : 2020年11月18日(水) 森下 辰衛 文学散歩 「枯木に花も咲くからなあっ!」-大正15・11・18復興反対集会の拓一 1926(大正15)年11月18日、「十勝岳爆発による泥流罹災地は絶対復興の見込なく、多額の費用を投ずるは無意味に国費を放棄するものである」と主張する復興反対期成会(会員約15名)によって、上富良野村市街地で村民大会が開かれました。会場となった三共座は大正時代に栄えた共楽座が経営不振になった後を引き継いだもので、後に新築されて永楽座、更に上富良野劇場と名前を変えてゆきます。
2020年10月13日(火) / 最終更新日時 : 2020年10月28日(水) 森下 辰衛 おたより おたより ⑧ 最近いただきましたおたよりから、いくつかを抜粋でご紹介します。遠藤周作の「沈黙」と「塩狩峠」、医療と科学と自然界の問題、旭川空港の除雪体制、三浦家での体験談など、興味深い話題も沢山です。
2020年9月25日(金) / 最終更新日時 : 2020年9月25日(金) 森下 辰衛 三浦綾子を読む 『塩狩峠』刊行52年 ― 生き続ける馬鹿力 1968年9月25日、新潮社から『塩狩峠』が刊行されました。新潮文庫として刊行されたのは1973年5月29日。※単行本は9・2・5、文庫本は5・2・9と逆並びになっていて、今日はちょうど52年経った9月25日です。3年後の1976年、新潮社は文庫フェア「新潮文庫の100冊」を始めました。
2020年9月18日(金) / 最終更新日時 : 2020年9月19日(土) 森下 辰衛 知里幸恵 銀のしずく降る降るまわりに ― 知里幸恵召天98年 知里幸恵は1903(明治36)年、現在知里幸恵銀のしずく記念館が建っている登別市で生まれました。幸恵は7歳のとき旭川に移り住み、19歳まで伯母金成マツや、祖母モナシノウクと共に暮らし『アイヌ神謡集』を翻訳編集しました。この著作のアイヌ語のローマ字表記の正確さと独創性、日本語対訳の詩的表現力、及び序文の言葉の精神的深さは高い評価を受けています。1922年5月、幸恵は上京しますが、心臓病のため、同年9月18日、19歳という短い生涯を閉じました。
2020年9月7日(月) / 最終更新日時 : 2020年10月10日(土) 森下 辰衛 おたより おたより ➅ 最近いただきました感想のお便りの中からいくつかを紹介させていただきました。三浦綾子の物語や私の語る物語を何らかの光として受け取ってくださって、ご自分の物語を照らして語り直してゆくきっかけにしていただけたら、本当にうれしいです。
2020年9月2日(水) / 最終更新日時 : 2020年9月2日(水) 森下 辰衛 ホロコースト それでも人生にイエスと言う ー フランクルの思想 今日9月2日はV.E.フランクル(Viktor Emil Frankl 1905-1997)の命日です。ウイーンのユダヤ人家庭に生まれたフランクルは、ウイーン大学でフロイトらに精神医学を学びました。1941年、ナチス当局より出頭命令が来ました。一年間ウイーンのユダヤ人病院の精神科に勤務したのち、翌年9月収容されました。その直前にアメリカ亡命のビザを手に入れましたが、両親や結婚9ケ月の妻を置いて行くことはできなかったのです。