銀のしずく降る降るまわりに ― 知里幸恵召天98年

   “Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe ranran pishkan.”(銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに)

   知里幸恵は1903(明治36)年、現在知里幸恵銀のしずく記念館が建っている北海道登別市登別本町2丁目、ヌプルペッ(登別川)沿いで生まれ、幼少のころを過ごしました。父知里高吉、母金成ナミは共にアイヌです。幸恵は7歳のとき旭川に移り住み、19歳まで母ナミの姉、金成マツや、祖母モナシノウクと共に暮らしました。幸恵は、アイヌで初めてアイヌの物語を文字化した『アイヌ神謡集』の著者です。13篇のカムイユカラ(神謡)が収められているこの著作のアイヌ語のローマ字表記の正確さと独創性と日本語対訳の詩的表現力、及び序文の言葉の精神的深さは高い評価を受けています。15歳の幸恵を見出し指導した言語学者金田一京助のもとで翻訳作業を完成するために1922(大正11)年5月、幸恵は上京しますが、心臓病のため、同年9月18日、19歳という短い生涯を閉じました。アイヌとしての民族意識と誇りを持ち、アイヌ語を伝える使命を果たした幸恵は、没後、その著書と精神によって多くの人たちに感銘を与えて続けています。(参考:上記記念館HP)

   明治四十二年の春、知里幸恵の伯母金成マツは、旭川の近文でアイヌの人々にキリスト教を伝える伝道所を始めることになりました。マツはそれまで日高の平取(びらとり)に住んでいたのですが、そのころの友だちが姉妹で名寄に住んでいました。伝道所の会堂は建てることになっていましたが、それまで寄宿させてもらう琴似さんという人の家へのあいさつや打ち合わせなども必要で、前もって一度は旭川に行ったと推測されます。しかし親しい知り合いと言っては、名寄の友人二人しかいないので、少し距離はあるけれども、まずそのお宅を訪ねたことと思います。
   早春とも言えない二月の下旬、マツは、学校にも上がらない幼い姪幸恵を連れていただろうと思います。登別にいる妹(幸恵の母)がちょうどお産間近なのと、ほかにも少しばかり事情もあって、そこの一番上の六歳のこの姪も近文に一緒に住むことはほぼ決まっていました。幸恵は友人の息子村井曾太郎さんより二つ下で、曾太郎の従姉妹の元子さんの一つ上でした。年の近い子ども同士、三人はすぐに親しくなり楽しく遊んだ。これが後の婚約者との出会いでした。
   マツと幸恵は伊藤の家(元子さんの家)を出て、旭川に向かいました。それが明治四十二年二月二十八日であった可能性もかなりありうるので、そう想定しました。私が書いた小説『雪柳』ではこうして、永野信夫が知里幸恵を助けることになります。証拠が見つかっていませんから、推測に過ぎないのですが、列車便は違っていたとしてもかなり近い可能性のあることと思います。

   明治四十二年の早春、永野信夫(長野政雄)の葬列は今の旭橋を通って、近文の丘まで行きました。幸恵は、その年の秋には登別の家を離れて、祖母モナシノウクと共にマツの伝道所に一緒に住むようになりました。幸恵は家からすぐの小学校と高等科を一年終えると、市街の女子職業学校に通うようになりましたが、その通学路は、長野政雄の葬列が通ったのとほとんど同じ道で、それを逆方向に、次第に弱くなる心臓を抱えて毎朝歩いたのです。不思議という以上のものを感じずにはいられません。
   幸恵が職業学校の三年生だった大正八年、名寄の村井曾太郎は旭川の第七師団に入っていました。旭川に知り合いと言っては母親の友人のマツだけですし、母親からの届け物も時にはあったでしょう。彼はマツの伝道所を時々訪ねるようになりました。大工仕事なども得意でしたから、女所帯には助けにもなったかも知れません。そこで彼は幸恵に再会したのです。六歳だった女の子は十六歳。教会のオルガンを弾いて、「空には月なく星さえ見えぬ」(唱歌「灯台」)とか、「夕焼け小焼けの赤とんぼ」など、きれいな声で歌いました。
   彼女はまた、コタンの子どもたちにローマ字を教えました。曾太郎は彼女より二つ年上でしたが、子どもたちにまじって、ローマ字を習いました。そのころ、旭川に住むアイヌ民族は長らく土地の問題で不当な扱いを受けて窮地に立たされていました。二人はその問題も語りあったと思います。
   それから三年後の大正十一年の三月はじめ、二人は名寄で仮祝言を挙げました。しばらく村井家に滞在したあと、幸恵は旭川に帰り、それから東京へと出て行きました。そのための仮祝言でもあったのです。
   以下は『雪柳』からそのまま引用します。この部分は婚約者村井曾太郎(曾一)の息子からの手紙という形式になっています。

   父も一旦は反対したそうです。
   「東京というのは、我々から土地も名前も生活も何もかも奪って、滅ぼそうとする、和人の都じゃないですか。どうしてそんなところへ行かねばならないのですか。フチ(おばあさん)から聴いた物語を和人に売りに行くのですか?」
   「シサム(和人のこと。隣人の意)に売るのではありません。シサムの文字の力を借りなければ、フチが語るユカラ(神謡)がなくなってしまうの。ユカラは語るもの、謡うもの。文字にしたら死ぬかも知れません。でも、死んだように見える種でも、種だからこそ遠くまで行けるということもあるでしょう。そして、種ならば土の上に落ちて、季(とき)が来れば、芽を出すものです」
   「ぼくは、和人をゆるせないのです。……今度は、あなたまで奪ってしまう、和人を呪いたいほどです」
   「呪っちゃだめ、恨んじゃだめです。強いもの、数の多いものが、この地上を支配しているように見えます。確かに彼らは、土地も川もそこから取れる良いものも奪ってゆきます。けれど、そんなやり方は、いつか必ず行き詰まるの。頭やからだや心がおかしくなって、たくさんのいのちが死んでゆくでしょう。そのときに、その闇のなかで、おばあさんの語った物語が輝くのです。きっとです」
   「和人は、ぼくたちを無いものにしようとしてるんです」
   「和人がわたしたちを滅ぼすんじゃないの。和人の中にいて和人を動かしているものが、アイヌもシサムも滅ぼそうとしているの。東京に行けば、それもよくわかると思います」
   四月末、旭川を発って、一度登別に寄るというときに、彼女から父に短い葉書が来て、
   「必ず務めを果たして帰ってきます。チカップニ(近文)の水辺に帰って来る渡り鳥のように。そして曾一さんのお嫁さんになります」
   と書かれていたそうです。そうして、彼女は、東京で、わたしたちの民族の大事な物語を文字で残す仕事をされたのです。ローマ字と和人の言葉を使って。
   彼女が行ったのは、東京の本郷という所に住む有名な国語学者の家でした。その家に住み込んで、いくつかの教会にも通いながら、おばあさんから聴いたユカラを文字にしていったのです。でも、この方は、それから五か月も経たない、九月十八日に亡くなりました。まだ十九歳でした。心臓の病でした。この方が亡くなったとき、机の上には校正の終わったばかりの『アイヌ神謡集』と、机の下には聖書があったそうです。
   大正十一年秋のある日、父の耳に、
   「むかえにきてください。わたしを、むかえにきてください」
   という声が聞えたそうです。父は不思議に思いましたが、東京に行くことはしませんでした。
   すると数日後の夕方、今度は、
   「ごめんなさい。約束を守れず、あなたのところに帰れないわたしをゆるしてください」
   という声が聞こえたのです。それがその方が亡くなった九月十八日でした。
   父は、その後、母と結婚して、わたしたち兄弟が生まれました。
   父は、長い年月をかけて、その婚約者のことを理解していったのだと思います。最近になって父は、こんなふうに語りました。
   「わしらは、アイヌのことしか考えなかったが、あの人は違った。わしらの民族の滅びに向かう運命を止めようとしたんじゃない。何もかも飲み込みながら暴走してゆく、もっと大きなものを止めようとしたんじゃないかと思う。呪っちゃだめ、恨んじゃだめ、滅びを止めることができるのは、愛だけなの。あの人はそう言いたかったんだと思う」
   その方が亡くなってのち、いくつかの遺品を持って名寄に来たマツさんは、涙ながらに語ったそうです。
   「曾一さんにはあの子からお詫びの手紙が来たと思いますが、心臓がいよいよ弱くなって、東京で医者から結婚不可の診断が出たことは、あの子にも、さすがにショックだったようです。でもあの子は、喜びも悲しみも苦しみも楽しみも、すべては神様がわたしに与えられたことなのだ。わたしに相応しくないものを神様はお与えにはならない。だからわたしは与えられるものを素直に喜んで、いただかなければならない。不平、それは神を拒否することではないか。感謝、感謝!と、日記に書いておりました。そして、結婚ができないのなら登別に帰ってユカラを書き遺してゆこうかとも考えるようになったようです。あの子をゆるしてやってください」

   幸恵が近文のマツの伝道所を出て、東京に向かった1922年4月末、幸恵の背中を見送るかのように、旭川に堀田綾子が生まれました。そして12年後、幸恵が通った女子職業学校の後身旭川市立高等女学校に学ぶことになります。つまり綾子さんは知里幸恵の19年後輩だったのです。当然ですが、再来年2022年は三浦綾子生誕100年であると共に、知里幸恵召天100年でもあります。
   知里幸恵が書いた『アイヌ神謡集』の序文は、人類が書いた最も深くすぐれた文章の一つです。19歳で晩年だった彼女が綴った思索と苦悩と信仰のノートと共に読んでいただければ、と思います。

  9月18日は知里幸恵が金田一京助の家で亡くなった日です。金田一邸があった本郷の東大前の土地の隣に建つルーテル本郷教会で、記念会“シロカニペ祭”が毎年開かれています。11回目の今年は、コロナのためにオンラインでのライブ配信になります。https://www.shirokanipesai.com  9月18日 19:20~20:40 『アイヌ神謡集』序文の朗読、カムイユカラ朗読芝居(舞香さん)、ゲスト:関根摩耶さん  ほか  ※オンラインのみで、おいでになっても教会に入ることは出来ません。

 

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。