“最後まで耐え忍ぶ者は救わるべし”- 黒江勉さんを偲んで
その人と並んですわっていた青年がいた。廊下を歩く時、寝巻の上にいつもオーバーを着ていた。どこか前川正の顔に似て、上品な感じのする人だった。俳句をしている人らしく、時々俳句のことでわたしたちの部屋にも来ていた青年である。その人は黒江勉と言った。
「ぼくは修養のために出ています」
彼はこの会に来るようになった理由を言った。 (『道ありき』二六)
2021年1月28日、黒江勉(くろえつとむ)さんが95歳で亡くなられました。三浦夫妻と最も長い期間友人であった方の一人で、前川正と三浦光世の両方を生で見たことのある数少ない証言者の一人でもありました。
黒江さんは1925(大正14)年6月12日、父三郎さん、母トヨさんの第一子長男(五人兄弟となる)として札幌で生まれました。旭川に住んでいた6歳の時にお父さんを亡くし、兄弟たちに対しては半ば父親のように面倒も見ながら成長しました。叔父に養われて、札幌で成長されたのち、その叔父が旭川の偕行社で料理人になったことから旭川に移ってその手伝いをし、戦争末期には陸軍に志願。春光台の演習場では匍匐前進などの訓練も体験しています。また北見などオホーツクの山中に米軍上陸時の戦闘のためにトーチカ(コンクリート製陣地)を造る作業に従事しているとき、敗戦を迎えました。
戦後は道警に入りますが、1948(昭和23)年結核を発病。北大病院で片方の腎臓の摘出手術を受けますが、危うく右左を間違われ健康な方を摘出されそうになったようです。病状が重く、死を意識することもあったその頃のこと、隣のベッドに寝ている青年が読んでいた雑誌『保健同人』の裏表紙に一つの聖書の言葉が書かれているのが黒江さんの目に入りました。「最後迄耐へ忍ぶ者は救わるべし。」その言葉が黒江さんを支えました。最後まで耐え忍んでみようと、思ったというのです。実はその雑誌を読んでいた青年に、黒江さんは見覚えがありました。以前、黒江さんが逮捕したことのある人だったのです。
黒江さんはその頃出て来た結核の特効薬ストレプトマイシンを使ってほしいと主治医に懇願しましたが、適応症ではないと拒否され、ショックを受けます。しかし思いがけず元勤め先から「一時恩給金」が送られてきて、それで札幌の街の薬局でストマイを買ってきました。しかしこれは闇のストマイですから、もしかするとニセモノかも知れないと覚悟もしていましたが、それが見事に効いて黒江さんは回復して、重態者の13号室から一般の結核病棟に移動できました。
その後、黒江さんは旭川の国立病院に入院、そこから日赤病院に転院し、そこで1951(昭和26)年、堀田(後の三浦)綾子と知り合いました。12月に院内で開かれたクリスマス会に堀田綾子に誘われ出席したのがキリスト教との出会いともなりました。上に引用した『道ありき』二六章に出てきます。黒江さんによれば、綾子さんは「あさって私たちの病室で本当のクリスマスをしますから、良かったらいらっしゃいませんか」と誘ってくれました。綾子さんはストレートの長めのオカッパで大きな黒い瞳、決して明るいとは言えないむしろとっつき難い感じの人だったそうです。
二年後の1953(昭和28)年12月20日のクリスマス礼拝のときに、黒江さんは旭川二条教会で洗礼を受けました。その求道中には前川正にいろいろと信仰についての質問をしていたようで、前川正は買物公園通りの北の端の辺り、9条8丁目付近にあった黒江さんのアパートを訪問してくれたこともあったようです。
退院後は保険のセールスマンとなり、闘病中支えてくれたスズエさんと結婚。その後、道警に再就職し旭川と札幌で鑑識課に勤務しました。ご本人に伺ったところでは「嘘発見器」も使って取り調べをしていたとか。機械に強かった黒江さんは、後には三浦夫妻の結婚式の様子を8ミリに撮ったり(当時は国内ではまだ現像ができない時代だったとか)、開店間もない三浦商店の様子を写真に収めたりしています。しかし、その後にも結核を再発。胸に一升瓶一本以上の量の水が溜まったこともあったようで、危険な所を何度も通りました。道警退職後は宝石商(宝石のまつ井)を営まれました。
黒江さんは日本キリスト教会の旭川教会、札幌北一条教会で執事、長老を務め、ギデオン協会、三浦綾子読書会でも献身的に働かれました。大きな病気をなされた方でしたが、大変お元気で、特に聖書の言葉に支えられて死の淵から助けられた黒江さんは、ギデオン協会のことでは全国各地、海外にも行かれました。三浦綾子読書会では20年近く前、長谷川先生が札幌に読書会を始めた頃からずっと参加して支えて下さったメンバーでした。2012年、読書会と文学館が協力して東北の大震災被災地に綾子さんの本を持って行く活動をしたときも一緒に行ってくださいました。
また2014年旭川市春光台に除幕した三浦綾子『道ありき』文学碑の建設実行委員会では、委員長として尽力くださり、三年ほどの間、委員会のためにほぼ毎月、札幌から旭川に通ってくださいました。その2014年10月には、光世さんが召される半月前でしたが、奥さまのスズエさんを先に天に送られました。スズエさんがキリスト教主義の特別養護老人ホーム神愛園に入られてからは、生活はお一人でしたが、家事も一人でこなし、変わらずダンディで、毎日スズエさんをお見舞いに通っておられました。
札幌の白石読書会、北海道クリスチャンセンターでの読書会、真駒内読書会などに常連で出席下さり、北海道クリスチャンセンターでの会の後はいつも参加者で昼食を食べながらしばらく歓談するのですが、一度も私に昼食代を払わせてくれませんでした。すぐ近くの北大のクラーク会館(『続氷点』終盤では、その会館の前で、達哉が陽子を車で連れ去る舞台になります)も使い慣れておられたようで、その学生食堂でお昼をおごっていただいたこともあります。
いつも本当に優しく温かく気さくで、でも情熱的で積極的な方でした。2007年2月、光世さんと一緒に旭川からバスで網走に行って流氷を見るという“燃えろ流氷”『続氷点』ツアーがありました。その時はまだ中2だった長女と小5だった次女が参加しましたが、二人はツアーから帰宅後、声をそろえるように「黒江さんのファンになった!」と言いました。綾子さんとの出会いのお話は、自己紹介の度に何度も何度も聴きましたが、いつも本当に楽しそうでうれしそうで、すばらしいお顔でした。『氷点』でヒロイン陽子の美術の教師に黒江さんの名前が使われた時は、陽子の憧れの先生になったりする展開にならないかと期待したけど駄目でしたと、語っておられました。三浦夫妻のみならず夫妻を引きあわせた菅原豊さんのこと、前川正さんのことほか、たくさんの貴重な逸話をお持ちでした。
体調を崩される前、2018年の冬だったかと思いますが、札幌真駒内での読書会の後、「お古で悪いのですけど、もう着ないので、先生が着てくださいませんか?」とコートを下さいました。上品な色と生地なので黒江さんには良いけど、私には似合わないかも?と思いましたが、ありがたく頂きました。愚かな私は頂いてしばらくしてから気づいたのですが、多分札幌の百貨店で買ったブランド物の新品のようでした。私がいつもボロい物を着ているので見かねて買ってくださったのでしょう。私もだんだん年を重ねて黒江さんのように上品に着ることができたらと思いますが、まだまだのようです。
黒江さんの葬儀は、2月1日(月)10時より札幌北一条教会で執り行われ、百名ほどの参列者が集われました。司式の同教会の堤隆牧師からヨハネの黙示録21章1~5節による式辞があり、故人愛唱歌として讃美歌461「主われを愛す」が演奏されました。コロナ感染防止のためオルガン奏楽のみで、参加者は声を出さずに心で歌いました。葬儀礼拝式終了後、長男龍一さんからごあいさつがありました。黒江さんは北一条教会の教会員でしたが、龍一さんは中学生の頃、教会学校のための献金を親から貰っては教会には行かずに放蕩していたのだと告白されました。放蕩が行きつくところまで行ったのは龍一さんが大学生の時で、東京の大学で学んでいましたが、とうとう失踪、行方不明になったのだそうです。その時、黒江さんは札幌から来て、息子を探して歩きました。元警察だから、普通の人よりはずっと上手だったのかも知れませんが、遂に龍一さんは見つけられました。黒江さんは何も言わず龍一さんと高級フランス料理店に行き、夕食をしました。龍一さんは心配になり「おやじ、ここ高いんだろ?大丈夫か?」と問うたそうです。すると黒江さんは「心配するな。こういう時には惜しまないものなのだ」と言ったのだそうです。聖書のルカの福音書にある放蕩息子のお話が黒江さんの胸にあったのでしょうか。
黒江さんは長く俳句をなさった方でした。旭川日赤病院で「さわらび句会」という会に加わり、藤田旭山先生(『氷点』の辻口邸のモデルになった藤田邸の当主で、綾子さんも一時期ここで俳句を学んでいた)に指導を受けるところから始まりました。石田波郷の句が好きだったことから、黒江鏡湖という俳号(ペンネーム)を名乗りました。後年は、札幌の新出朝子先生主宰の『かでる』に俳句とエッセイを書き、評も担当しておられました。黒江さんの句を三つご紹介します。謙虚で信仰深く優しかった黒江さんが目に浮かびます。
長病みて雪の匂いを知り初めし (1951頃・日赤時代)
誇ること無き喜びや一輪草 (2014・復活祭)
なつかしき綾子の町のナナカマド (2020・1・10・最後にお見舞いした日に)
今ごろは、綾子さんや光世さん、前川さんたちと談笑しておられるでしょう。黒江さん、ありがとうございました。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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