太宰治「走れメロス」を読んで

 今日6月19日は太宰治の誕生日です。1909(明治42)年、塩狩峠で長野政雄さんの殉職事故のあった年に生れています。30年ほど前に書きました太宰の短篇小説「走れメロス」についての論文(解説)を載せます。当時の私の関心の在り処が感じられ、理屈っぽいところもありますが、笑っておゆるしくださって、良いところだけお読みいただけると感謝です。作品は新潮文庫の『走れメロス』などに収録されています。この国では中学生で読んだ方が多いと思います。中期の良い作品です。ぜひお読みください。

 

     「走れメロス」を読んで   ー  文学と祈りと死ぬこと

エホバよわれ知る人の途は自己によらず且歩行む人は自らその歩履を定むること能はざるなり(「エレミヤ記」10章23節)

   谷川俊太郎が言うように、「私は造られそしてここに放置されている」(「鳥羽 1」)。「私」はいつも「ここに」と呟きながら、誰にというわけでもなく呟きながら「放置されている」。「私」は〈私〉を自己のものにしているがゆえに、「造られそしてここに放置されている」。「私」は放置され、そして不透明で、すべてを所有し(或いは背負わされ)、そして大きな欠損を内に抱いている。それゆえ「私」は呼ばねばならぬ。放置されて、「私」にとってのみ「私」であるような、「ここに」しかいない「私」であることから抜け出すために。「私」は呼び出さねばならぬ。―― だから、誰か(の声)を。

   ブーバーが言うように、「〈われ〉はそれ自体では存在しない。根源語〈われ なんじ〉の〈われ〉と根源語〈われ それ〉の〈われ〉があるだけである」(「我と汝」第一部) としたら、「私」にとってのみ「私」であるような「私」とは、「存在しない」私なのだ。

   しかし人は、どう語ったらよいのか自分では知らない。どうやって呼べば呼び出せるのか知らないのである。あるいは、〈われ われ〉という自閉状態の中にいて、どう語れば〈それ〉あるいは〈なんじ〉に至ることができるのか知らないのである。
 人は、語らねばならないのである。しかしそれは内面の表白とか自己表現と言ったことでもなく、それらによる解放でもない。自己解放のためにのみ試みられる時、文学は何ものにも結びつきえなくなる。そこには自己解放という虚飾の名の下に排泄された不浄な物体の他に何が残るであろうか。文学において実現されるべきなのは自己解放ではなく、むしろ自己であることの否定である。
 記述というものは世界像の模倣であるだけではない。文学において、それらは最も本質的であるわけではない。文学は現象であり、運動であり、事件であり、探求である。あらかじめ企画された過程とならない持続。語るものは彷徨いつつ失い、そしてその喪失のうちで待つことだけが残される。語ることと失うことと待つことと。死してある者となること。そういう意味での自己の否定。

 「走れメロス」ははじめ中学校の教科書で読んだ。その時かなりはっきりとした印象が刻まれていたが、太宰治という作家を知ったのは、もっと後になってからだったと憶えている。別に意外であったというわけではない。年譜と作品を並べ比べる必要のない読者には「太宰もこんなのを書くのか」などと通ぶって言う必要も余裕もない。メロスに声援を送り、またメロスとともに走り、メロスとともに生き、文章のリズムの中に自己喪失していった旅程の記憶があるばかりなのだ。太宰治と自ら名乗った人生を生きた者のではなく、太宰治という架空の名の下に自己を書き殺そうとした精神の運動としての作品。作家という者は、意図するしないにかかわらず、書くことの中で己れを殺そうとするのである。しかしそれは自殺ではない。自殺することは不可能である。希んだ放棄であったにせよ、殺すのは人間ではないからである。また更に、言葉によって己れが殺されることが目指されているにしても、それがそのままで解決となるわけではない。死ぬことは希望の予兆、可能性の鍵、期待する待機であるに過ぎない。そして、祈りというものは、それが本物であるならば、何よりも十全にこれらのことを証明するのだろう。

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  メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

 「邪智暴虐」とは「邪智」かつ「暴虐」なのではなく、この王の場合「暴虐」が「邪智」から発しているのであり、真に「除かなければならぬ」のは「邪智」、すなわち〈邪な智恵〉である。王が「信実」を「空虚な妄想」だとする考えもここに起因している。すべてを懐疑する強靭なニヒリズム。その基盤としての、蒙昧を許さない論理性と不純を決して見逃さない高貴な心眼を、王は持つ。
 「満願」においては「私は愛といふ単一神を信じたく内心つとめてゐたのであるが」と書かれていたが、いずれも、智恵による、或いは意志と理性による自己救済の試みの暗闘を語っている。王は懐疑的理性によって純粋なものを選り分け、掴み取ろうとして、血みどろの暗闘を闘う。暗闘――自ら放つ矢が己れを傷つけ、自ら施す癒しの手術が却って創口を広げ、出血をひどくしてゆくような。
 メロスは王を「邪」とするが、むしろ王にとってこそすべてが邪悪なのである。王が世界を注視するとき、それが邪悪なものの支配下にあることは、否定し難い事実なのであり、ゆえに「世の中の、正直者とかいふ奴輩」の愚鈍蒙昧は王において侮辱としかならないのだ。
 王は独りその邪悪な力に対して反抗を試みる。誰がその道を耳打ちし教えたのか、余りに孤独な王は「暴虐」を以て見えるものを撃つ。邪悪な力に対して反抗を試みて起つ時、自らも邪悪な者と化し、識らないうちに、結果戦うべき敵の同類となっている。
 王は存在の暗い内奥を注視する。決して見えない内奥の方を視る。王は智恵に嚮導されて血まみれた彷徨いを彷徨う。王はしかし、王であるゆえに、敗けることができない。智恵が戦い続けることを強制する。それゆえに、その智恵をこそ王は砕かれねばならないのだ。そうでなければ、王という〈私〉は永遠の暗闘の苦悶の地獄に留まらねばならなくなる。
 この王の「邪智」を除き「信実」を教えるために一人の若者が走る物語。王の課題(人に「信実」が存在するか否かという問い)がメロスの課題として負わされ、託される。王を殺そうとして王城に入っていった者が、今度は己れの死刑へ向かって走りだすのだが、己れの死刑こそが、王の(邪悪性の)死刑であるのであれば、メロスは悪霊を己れに乗り移らせ投身自殺する映画のエクソシスト(悪魔祓い)に等しい。

 はじめ、メロスは王の論理と闘うために走る。邪悪な智恵と闘うためにメロスは「信実」を以て対する。また「愛」「誠」「正義」を旗頭に闘う。しかしこれらの言葉はそれ自身の文字通りの意味より外、内実を持っておらず、王の憫笑を受けるものでしかない〈文字〉である。「文字は殺し、御霊は生かすからです」(「コリント人への手紙第二」三章六節)とあるように、〈文字〉とは律法でありお題目であり、〈ねばならない〉である。それは常に刑罰と結びついている。〈文字〉を背負うとき、人は死刑を免れえないが、やがて〈文字〉が落ちるときには死刑も消滅する。かくして〈文字〉に拝跪する者としてのメロスはいずれ死ななければならない。王の智恵が死刑にならねばならないのと同じく。
 しかしこの王の「邪智」の向こうには更に、暗闇が裂目のように口を開いている。王の不信は「信実」への或いは「愛といふ単一神」への渇望に起因しているが、智恵とニヒリズムは挫折の悪循環を繰り返し、その円環の中心をなす暗闇に臨んでいるのだ。それゆえメロスの〈文字〉の空虚さもまた、同じ暗闇へと接近して行くことで明らかにされねばならない。

  歩いてゐるうちにメロスは、まちの様子を怪しく思つた。ひつそりしてゐる。もう既 に日も落ちて、 まちの暗いのは当りまへだが、けれども、なんだか、夜のせゐばかりで は無く、市全体が、やけに寂しい。

 この〈もうひとつの夜〉、〈夜の中の夜〉への無知がメロスを王城へ誘うのであり、既に開かれてある門をメロスは「のそのそ」入って行く。    

  その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたやうに深かつた。
  「おまへがか?」
      王は憫笑した。
   「仕方の無いやつぢや。おまへなどには、わしの孤 独の心がわからぬ。」

 メロスにとって王は決定的な不可解を孕んだ他者である。メロスは王の中心へ向けて走り始める。王の眉間の皺の谷底にある何ものかを見に行かずにはいられない。王の皺の深さと「おまえなどには、わしの孤独の心がわからぬ」という〈無知〉の告知がメロスを、その闇へと、その探求へと走らせるのである。この皺の深みから溢れ出る暗さがまちを覆っているのだ。

 不可解のために人は書き、その中心への無知と欲求とによって人は書くからである。人は捕えられ、引きずり回され、纏ったものを剥ぎ取られてゆく。彷徨という言葉の響きがわずかに持つ主体性は、彷徨い〈始める〉時点にのみ実現されたのであったが、限りない錯誤の中に持続する彷徨の中に失われてゆく。書くという言葉の響きが持つ主体性も同じく過程とならない持続の中にいつしか落剥してゆく。書き続けるなかではじめて書き始め、彷徨い続けるなかではじめて彷徨い始め、そしてそれらを通して〈待つ〉ことの本当の始まりが形成されてゆく。文学とは無力感のなかに打たれながら佇むことであろう。無力であることの可能性、もしくは全き無力の中に啓かれる可能性のみが、やがて鍵なのだ。
 メロスは死へ向かって走るが、書くこともまた〈死〉へ向かって走るのである。人間存在に対して常に〈外部〉であり続ける〈死〉、明かされざる内奥――人はそこに至り着くことはないのだが、そこへ向かって走るのである。不可-解であり、手の届かない場所であるからこそ。

          ※       ※       ※

 メロスは妹の婚礼が待つ〈生の村〉へ走る。それは一見、死の闇の源である王から離れて行くようであるが、実は王の方へ走っているのである。メロスは王の問題を死刑という形で背負って走る。死刑を背負った者が〈死の市〉から妹の結婚式の祝祭の〈生の村〉へと放たれる。或いは〈夜〉から〈昼〉への帰還。しかし、務めを果たして再び〈死の市〉へ還ってゆく、生――死往還の物語。村はその英雄が背に負った死刑の、延期中の死刑の重さを一層痛感させられる場であり、あるいは死を通して生を見る目の現われであるが、それ以上に、身に纏った物を振り落として行く行程のひとつの段階である。例えば血肉紐帯に代表される人生的属性の捨象が果たされるのであり、あらゆる過剰が(過剰でないものなどないのだが)削ぎ落とされてゆく、存在のベクトル化への第一段階である。〈昼〉の良きものすべてを擲って〈夜〉へ下って行く準備、文学の本源的な宿命性と使命が見える。オルフェウスが〈夜の中の夜〉からの誘いとそれへの欲求とによって冥界へ下って行くように。
 しかしまだ、メロスは生きている。
 己れを勇者として誇っている。或いは誇らざるをえない弱さと孤独の中にあると言うことも可能であろう。そして「けふは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやらう」と思う時、また「殺される為に走るのだ。身代りの友を救ふ為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ」と考える時、メロスの意識は尚も「ねばらなぬ」であり、倫理上の自己優位性のうえに乗った王の弾劾であり、凄まじい自己肯定である。メロスは友のために自己の身を犠牲にするということを知ってはいるが、その捨身も己れの倫理と論理と意志で為そうとするものである。メロスを動かしているのは「愛」「誠」「正義」「信実」といった言葉、すなわち〈文字〉である。いずれは破砕されねばならぬパラダイムなのであるが、メロスはまだしばらくは言わば〈床の間の掛軸〉を背負って走るのである。

      濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のやうにのた打ち荒れ狂ふ浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめつぽふ獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思つたか、つひに憐愍を垂れてくれた。

 神の憐愍によらずしては救われがたいのであるが、それはまだ本当には知られることなく、自力本願の我武者羅な闘いを「めくらめつぽふ」にのた打ち回る。おそらくは王がかつて既に陥った濁流であるかも知れない、それはデカダンスであり暗闘でもあろう。そして、次の難関として山賊が登場するとき、メロスは言う。

      「さては王の命令で、ここで私を待ち伏せしてゐたのだな」

   こうして、メロスも邪悪に対して邪悪をもって抗する王の轍を踏む。真実、山賊が王の放った手下であるかどうかはどこにも明かされてはおらず、メロスがそう考え、決めているのである。メロスの智恵がそう考えさせるのだが、その邪推によってメロスは王の〈邪智〉の方に引き寄せられつつある。
 しかし滞留は許されない。物語は淀み、迷行はメロスの疲労困憊のなかで、その深みへと下って行く。「彼に於て彷徨は迷行の深部となり、夜はもうひとつの夜となる」(「文学空間」Ⅶ 文学と本源的体験)とブランショが言うとおりである。

  もう、どうでもいいといふ、勇者に不似合ひな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰つた。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心はみぢんも無かつた。(中略)私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンテイウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがひ無い。いや、それも私の、ひとりよがりか?ああ、もういつそ、悪徳者として生き伸びてやらうか。(中略)正義だの、信実だの、愛だの、考へてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかつたか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまつた。

 ここの内的独白は作品において、他の事件の記述に比べて際立つ長さを有する。メロスはここで王の中心領域に入り込んでいる。王が辿ったであろう苦悩を辿り直し、王の彷徨する淵の縁を彷徨する。暗闇(「もうひとつの夜」)への臨界地帯へ足を踏み入れている。〈文字〉は拘束する魅惑の輝きを失ってばらけ落ちる。昼の価値は根拠を剥ぎ取られる。ロゴスの入れない地点の前で死に瀕した言葉の混乱とむしろ動騒。そして窮迫状態に陥る。 
 メロスは、ヤケクソと自己憐愍と居直りと自己処罰願望と、混絡葛藤の果てに、「人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかつたか」と独白する。そのときメロスは、王のニヒリズムの沼に投身し、王と完全に一致し、暗い内奥に臨んでいる。自己肯定と王に対する倫理上の優位は既に崩れ、混沌となった夜の底に沈んでゆく。
 挫折 ― しかし挫折することの可能な者にのみ許される〈非決定〉の中にメロスは身を投げてもいるのだ。そしてこの「四肢を投げ出して、うとうと、まどろ」むことのうちに〈自己放棄〉が、すなわち第一段階の〈死〉がやって来る。

          ※       ※       ※

  ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そつと頭をもたげ、息を呑んで耳をすまし た。すぐ足もとで、水が流れてゐるらしい。よろよろ起き上つて、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が沸き出てゐるのである。その泉に吸ひ込まれるやうにメロスは身をかがめた。

 自己放棄が果たされる時、不意に生命の泉が地面の下から訪れる。「ふと、耳に」「何か小さく囁きながら」それは訪れる。人間の意志の下に働く肉体を失ってふらふらになり、すべての思念を放擲した者が「吸ひ込まれる」という受動性のうちに生かされ始めてゆく。そして、「吸ひ込まれるやうに」、己れを委ねるように、泉に身をかがめるメロス。文学の最も深秘な領分、或いはその可能性の始源がここに出現する。
 ここを転換点として、①王の背後の暗闇(夜の中の夜)=存在の内奥へ向けての闘争的探求のエクリチュール(記述)は、②メロス/王の〈死〉=邪智と文字の〈死〉へのエクリチュールへと変容してゆく。この作品のエクリチュールはこうして〈死〉へ向けて、すなわちメロスの〈死〉の方へ進まねばならなかったのである。メロスは〈死〉において〈文字〉と〈邪智〉を殺し、書く者は書き続けることのうちで己れを殺す。そして、しかしエクリチュールはもうひとつの軸を有している。死してある者となり行き、その待機状態に入り行くにつれて現われてくる軸。すなわち、③「なんじ」と呼んでくれる者の訪れへの過程ならざる過程としてのエクリチュールである。そして言うまでもなく、①②は連繋し、③は〈死〉という領野でそれらと交差している。
 文体の疾走するリズムのうちにのみ、メロスが本当に死に、そして聖なる力の器に転成してゆくのであれば、そのリズムの強さこそ、この作品の最も重要な生命である。生命である地の文において、語る者はゼロ度の語り手とメロスの二者であるように見える。そして「メロスは額の汗をこぶしで払ひ、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い」のように、語り手の語りとメロスのそれとが違和なく切れ目なく連続するところにこの作品の語りの特徴があるが、メロスが〈死〉へと疾走する行程と重なって、「メロス」と呼びかける者が立ち現われる。

A 「真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切つて動けなくなるとは情無い。…(中略)…まさしく王の思ふ壷だぞ、と自分を叱つてみるのだが」

B 「私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。」

C 「私は信頼されてゐる。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。…(中略)…メロス、おまへの恥ではない。」

D 「ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走つてゐるのだ。その男を死なせてはならぬ。急げ、メロス。」

 Aの場合は「と自分を叱つて」とあるように、まだメロス自身の声であるとするのが正当であろうが、それでも既に「真の勇者、メロスよ。」は句点によって文としては独立している。B、C、Dは走りだしたメロスの独白でもあるが、「私」という意識から、〈文字〉を語る中間的な二文め(メロスの「私」からの〈文字〉の遊離)を経て、「メロス」と呼びかける意識に転換してゆく。分裂であろうか?或いはそうかも知れない。しかしこの分裂は単なる分裂を超えるものを本質として蔵している。すなわち、メロス自身の内的独白から分離独立し、メロス自身の声を超えてメロスを呼ぶ声、或いは純粋な声援が起るのである。メロスを超えた声 ― それは語り手の声であろうか?否、むしろ、「走れメロス!」とはさらに語り手すら超えて起る、誰のものでもなく、すべてのものでもある、〈なんじ〉と呼びかける声援ではないか。 かくして全き他者は呼び出され、〈われ〉は〈なんじ〉となる。
 それもまた、走り続けるなかで、そのリズムのなかに死につつ走る者に、始まりつつある待機状態のうちに訪れるものである。さらに走り続けるなかで、声は〈文字〉と共に消えてゆくが、やがて「もつと恐ろしく大きいもの」「わけのわからぬ大きな力」という全く不明瞭な領域のものに跳躍的に連動する。

  それだから、走るのだ。信じられてゐるから走るのだ。間に合ふ、間に合はぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もつと恐ろしく大きいものの為に走つてゐるのだ。ついて来い!フイロストラトス。

 「信じられてゐるから走るのだ」と言う時メロスは自らの意志の道を疾走するのではなく、引っ張られるベクトルになっている。まさに「間に合ふ、間に合はぬ」や「人の命」こそが問題であり、メロスは今までそのために走っていたのであるが、そのような人間的な目的意識や計算する意識を剥ぎ取られ、何のために走っているのか判然しなくなる。「もつと恐ろしく大きいもの」としか言いようがないのである。かくして〈文字〉は木端微塵に破砕される。
 「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。」と言うフイロストラトスは理性である。邪悪ではないが合理的理性である。「間に合ふ、間に合はぬ」を計算し判断する意識であり、メロス自身をさっきまで走らせていた当のものでもあるが、ここでは最後の障碍であり、そして、もはや今は主権者から滑り落ち、つき従う者とならねばならない存在である。

  メロスの頭は、からつぽだ。何一つ考へてゐない。ただ、わけのわからぬ大きな力に ひきずられて走つた。

 思考が停止され、智恵というものが失われ、空虚化される。そして、呼吸は止まる。 
 存在はベクトル化する。しかも自らのうちに方向も動力も持たないベクトル。真の喪失のうちに訪れは啓かれる。書き続けることのうちではじめて書き始めることができるように、メロスは死刑へ向けて走り、走り続けてゆく中で本当の〈死〉を死んでゆくことになる。すべてが失われると同時にすべてが訪れ、全き自由のうちに入ることになる本当の〈死〉。「死してある者」と言ったのはそういうことだ。最早その者が生きるのではなく、別の生命がその空の器に内住するのである。そのとき人の子は、言葉を超えた、「正義」や「友情」や「信実」といった〈文字〉を超えた倫理を、それゆえにむしろ聖なる反倫理を体現する器となる。ここで聖なるものの謂である「わけのわからぬ大きな力」が成就される時、そしてたったひとりが人間としての(すなわち死にうるということの)証を立てることによって、すべてが救われうるのである。 

          ※       ※       ※

 「走れメロス」は正義と意志と友情との力によって人間の「信実」が勝利する極めて単純明快な明るい話であると教えられると、私は修身の時間のようにがっかりしてしまう。むしろ、実際にはその修身のお題目が空無化され破壊される話なのである。そして文学というものが基本的にそのような否定行為そのものなのである。
 「走れメロス」は単純な話なのではなく、単純になる話である。また、様々な艱難や悪魔の囁きに打ち勝ち乗り越えて初志貫徹する英雄の物語ではない。メロスの変化こそが主題なのであり、尚もメロスが勇者であるとしたら、それは多くの障害を乗り越えたからではなくて、その彷徨と死と待機と受動の旅程を誠実に辿り果たしたからなのである。
 勝利するのは人間の意志や正義や友情ではなく、むしろそういった人間的な価値を消滅させる「わけのわからぬ大きな力」であり、砕かれることのうちにのみ救いが訪れるのであれば、救われるのは、セリヌンテイウスよりもメロス、メロスよりも王デイオニスなのである。

  「メロス、君は、まつぱだかぢやないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い 娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
  勇者は、ひどく赤面した。

 緋色のマント、すなわちキリスト・イエスが十字架にかけられる前に着せられたものが彼に与えられるとき、ここで何故に「ひどく赤面」せねばならないのかが問われるべきだろうか。ならば言おうか。人目を意識する時、剥出しにされた純粋さは恥ずかしいものだ。或いはこの「赤面」は太宰自身の赤面であったのだと聴くこともあるが、そんなもの言いをするほど私は太宰という人と知り合いではない。しかし、いずれにせよここで緊張は解かれ、メロスがひとりの男に戻ると同時に限定された作品も終わる。〈終わり〉が失われることで物語は消滅し、文学は(或いは終わらない作品は)、再び冒頭を指示する。作品の終わりはいつも、作品が終わらないことを語る。作品というものが常に冒頭であるから。

 「造られそしてここに放置されている」「私」は、書くことのうちに自らを喪失せねばならぬ。なぜなら真の喪失のうちにのみ訪れは啓かれ、最も暗いところに光は差し込むからである。あるいは、打たれ続けるときにはじめて、人は聖なるものに結びつくことが可能となる待機のうちに入るからである。文学における〈待つ〉ことの、若しくは「予感する待機」ということの本源性はそこに賭けられている。書く行為と登場人物の行為もしくは事件とが必ず同時的に重なるなどということではないが、メロスの物語は文学そのものを、書くことの側面において精確に体現するゆえに、文学そのもののアレゴリーでもある。
 文学について語るとき、「祈り」ということを人はしばしば口にするが、それはいつも比喩に過ぎなかった。「祈りにも似た」と人は言うが、それは祈りでないことを同時に言っており、〈真剣な願い〉というほどの意味以上のことを言ってはいない。
 祈りがたまたま文学に似ているのではない。放置されてある〈われ〉が〈われ〉のこぼれ落ちと共に〈なんじ〉と呼ばれるに至るまで。祈りはいつも、文学よりも純粋に自己否定と待機を本質している。例えば太宰の「待つ」という作品を「祈り」と呼んでも構わないが、厳密には謬りである。文学は生き方をではなく、死に方を教えるものであるが、祈りが文学のひとつの形式であるのではなく、文学が祈りと同じプロセスのうちに生起するのである。しかし、おそらくは交じり合うこともなく。                  

 

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。