李(すもも)―前川秀子から綾子への手紙 抄3

   三月末、ぬかるんでいた道の雪も少なくなって、馬糞風が吹き始めるころでした。札幌の大学近くの下宿の住所で、あの子から葉書が来ました。大学病院で診てもらった結果を簡単にしるしたあと、
   「一年遅れの成人のお祝いのようです」
   と、一行書かれていました。青いインクのいつもと変わらない文字でした。
   それから、身の回りの片づけをして旭川に帰って来た日、夕食が終わって、お茶を出すとき、柱時計が八回鳴りました。ゆっくりと湯呑みを置いて、
   「ぼくもこれで一人前の大人になれるかな、母さん」
   笑いながらそう言ったあの子の目にちょっぴり涙が滲んだのを見て、わたしは胸が絞られるようでした。北大予科を了えて、医学部本科に入学して一年で、肺に浸潤が見つかったのでした。
   その前年の末には日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入していました。
   それから療養に努めて、回復し、一度は復学したものの、また再発し、二度めの休学をしなければならなくなりました。今度こそは覚悟して療養しなければならないと、本人も家族も腹をくくって、教会の先生にも祈っていただきました。それが、あとひと月余りで二十三歳の誕生日が来ようという昭和十八年の五月の半ば。近所の李の木に清い白い花が咲き始めていました。
   十九年には、入院中徴兵検査猶予廃止になり、正も入隊検査を受けました。タクシーを呼んで、徴兵検査所に行きました。不合格と分かっているのに、受けに行かなければならないのが、かわいそうで見ていられない気持ちでした。お国の役に立たない者であることを、思い知らされ曝されるために行くのです。どんな試験も優秀で主席を譲ったことがないような子が、初めて不合格を受けに行くのです。かわいそうでした。あの時代の普通の若者と同じように、正も当時は軍国青年でしたからね。主人は怒っていました。検査の朝、普段は物静かな人の、朝食の飯椀を持つ手がわずかに震えていました。パシッと何かを打つように箸を置いたかと思うと、天井を向いて立ち上がった主人の横で、正は何も聞こえなかったように食事していました。わたしと進は互いの顔をちらっと見ました。誰も何も言いませんでした。

   あの頃は死の病でしたから、正が肺病と分かったとたん、離れてゆく人もいました。今まで足しげく訪ねて来ていたのに、急にパタッと顔を見なくなった人もいました。教会の・・ちゃんという女の子。正より四つか五つ年下で、「正さん、正さん」と、まとわりつくようにしていたのに、正を見ると、口を塞いで、遠くに去ってゆくのです。そして、ひと言、言った言葉が、
   「健康管理が悪いんじゃ、医者として失格ね」
   まあ、なんてことをと、わたしは腹が立ちましたが、正は噴き出して笑っていました。すると、その子が、逃げながら、真顔で言うのです。
   「笑わないで!噴き出したりもしないで!菌が飛ぶでしょ!」
   それで、わたしも噴き出しました。

   綾子さんはご存知ないかと思います。正も問われなければ話さなかったでしょうから。その頃、教会に多恵子さんという若い姉妹がおられました。細身で、優しい目をして、時々集会でオルガンを弾いていました。わたしはその頃この多恵子さんが娘のように思えてかわいがっていました。数年前に死んだ美喜子に少し似ていたのです。人が全く血縁もないはずの誰かに似ているって不思議ですね。そのように見たいという自分の欲がなせるわざに思う日もあれば、神さまが憐れんでくださって密かに送ってくださったのだと思うときもあるのです。
   彼女の家は貧しくて先生につくことが出来ないので、教会でオルガニストをしている方に教えてもらってオルガンを学びました。月に一回、礼拝の後の十五分だけ。それでも、彼女は必死に学びました。教会の普段使ってない壊れかけたリードオルガンで練習しました。彼女の父親は金を借りては失敗をする人でした。お母はいませんでした。彼女を産んでじきに亡くなったのだそうです。多恵子さんは、女学校に行くのに自分でお金を貯めていかなければならないのでした。ところが、やっとお金を貯めて二年も遅れて女学校には入れることになった三月、お父さんがまた失敗をしてしまいました。多恵子さんはお父さんが迷惑をかけた人の家に、女学校の入学金を持ってお詫びに行ったそうです。土下座した彼女の言うことも聞かないうちに、その家の人は怒鳴りつけました。春と言えない三月だというのに、罵声と共に、水を浴びせ掛けられました。でも水の冷たさよりも、多恵子さんには、お父さんを悪く言われる言葉の方が辛かったそうです。
   「お父さんははじめから人をだまそうと考えるような人ではありません」
   彼女が言っても、ピシャリと戸を閉めて、聞いてはくれませんでした。
   そんな彼女をかわいそうに思って、女学校の入学金をくれた人もいましたが、多恵子さんは、結局女学校には行きませんでした。彼女はオルガンの練習を重ねて、とうとう奏楽者になりました。「私にもできることがありました」と喜んでいましたが、その頃には、街中にあった彼女の家は忠別橋の下のサムライ部落に移っていて、そこから町に働きに出ていました。
   それが、ちょうど正が北大の本科に入った年でした。教会が何周年だかの記念の年で、青年会が中心になって文集を作ることになり、夏休みに帰って来ていた正が係になって進めて秋には原稿が集まりました。後の実務は別の人がしてくれたのですが、クリスマス前には印刷に出して、冬休みで帰省した正がみんなから印刷代の献金を集めました。相当な金額でした。ところが、困ったことにそのお金がある日なくなってしまったのです。それでも正は慌てもせず、騒いで探しもしないので、家族もしばらくは知りませんでした。私にも言いませんでした。自分の責任だからと思っていて、心配させたくなかったからかも知れません。でも実は、大分あとで分かったのですが、正は盗んだ人に心当たりがあったようなのです。
   それでも、正は、日曜の午後、会堂のオルガンの裏の狭い部屋で、一番信頼する秋雄さんにだけは話して、一緒に祈ってもらったのです。それをオルガンの練習をしていた多恵子さんが偶然聞いたのでした。正はそれをとりあえず授業料で埋めようと考えたようです。授業料をどうするのかという当てはなかったけれど、半期分をしばらく滞納したぐらいですぐに退学にはならないので、何かアルバイトでもすれば、金は出来なくはないだろうと判断したのでした。
   ところが、お金を持って印刷屋に支払いにいくと、もう誰かが払ってくれていたのです。秋雄さんしか知らないことですから、秋雄さんがしてくれたのだと、正は少し落ち込んでいました。ところが秋雄さんが自分ではないと言うので、正は調べていって、多恵子さんがしたことだとつきとめたのでした。
   正はその日、厳しい顔をしていました。厳しいというより不機嫌な感じでした。正は実際、多恵子さんに、少し厳しいことを書いて送ったようでした。このことをしばらく後で知った私は、多恵子さんに訊ねたのです。多恵子さんは、いつもよりずっと明るく、こう言いました。
   「私なんかが学校に行ったって、何にもならないのです。正さんがお医者様になったら、どれだけの人が助かるでしょう。勉強は図書館でもできます。今年から夕方も少し遅くまで開館するようになったんですよ。……でも、正さんには、分かってもらえませんでした。……いいえ、正さんは全部分かったのです。私が馬鹿でした」
   そして、今度は急に淋しそうな声で、こうわたしに訊きました。
   「教えてください。正さんが癒されますように、としか祈らないのは、正さん以外の人は治らなくてもいいという呪いをしているのと同じなのでしょうか?」
   「えっ、何が悪いものですか。ありがとう、正のために祈ってくれているのね」
   正はバイトをしてお金を返すつもりだったようです。でも、そのバイトするはずの春休みが始まった頃には、正はもう胸に不調を感じていました。正は何年もかかって多恵子さんにお金を返しました。北大の研究室で何度も教材になったのをご存知でしょう。それと、何かの会の書記をしてガリ切りをしたのと、それだけがあの子のバイトでした。

   わたしは、多恵子さんのような人が正を支えて慰めてくれたらと、胸の内で願っていました。母親というものは、なんて自己中心で大事なものが見えないのでしょう。だから、正があなたと再会したとき、余り良くは思わなかったのです。
   昭和二十三年の年末。教会のクリスマスの行事も片付けも終わって、二十七日だったでしょうか、午後帰ってきた正は言いました。
   「お母さん、今日は珍しい人に会って来ましたよ」
   「珍しい人?」
   「なつかしい人と言うべきかも知れませんが、ぼくには珍しい人という方がぴったりなんです」
   「……?」
   「堀田さんのお嬢さんの綾子さんですよ。お母さん、憶えてるかな?十二丁目にいたとき隣だった。彼女、最初に美喜子の臨終のときのことを訊くんですよ。ずっと聞きたかったのだと言っていました。そしてね、最後に、正さんて有名な秀才だから、もっと面白い人かと思ってたのに、ですって。あははは。ね、傑作でしょ、だから珍しい人なんですよ」
   母親というのは怖いものだと思います。ふと、何か、分かるのです。勘づくと言ってもいいでしょう。
   夕食後、正は、机に向かって日記をつけていました。いつもよりゆっくりと。わたしはその背中を見ていました。そして、翌朝渡された白雲荘内堀田綾子様宛の手紙を、お昼前、市場へ行く途中でわたしが投函しました。そのとき、青いインクで書かれた、あなたの名前が憎らしいような気がしました。ギラギラ光る大きな目をした瘦せっぽちな女が、正の服の裾を握っている、そんな感じがしていました。ごめんなさいね、あなたでなければこんなにも正直には書きません。
 それから昭和二十四年が明けて、二月の末のころだったでしょうか、白雲荘のお見舞いから帰ってきた正は、珍しく何も言いませんでした。そしてすぐに机の方に行ってしまいました。でも、分かるのです。帰って来たときから、正の厳しさの底に、興奮がありました。憤りではない、悲しみでもない、でもどこかを刺されたような興奮が。正はすぐに、机に向かって、ゆっくりと日記をつけていました。たぶんいつもの青いインクで。そう、その日、正は綾子さんに、こんなことを言われたのでしたね。
   「わたし、クリスチャンって、嫌いなの。私みたいな女、上から目線で、この罪びとめって、見てるでしょ?裏表があるでしょ?清いふりしてるけど偽善者でしょ?そういう人種が一番虫酸が走るの。わたしね、死んだってクリスチャンなんかにはならないんだから、もう帰ってください」
   これを聞いても、失礼だなんて思いません。正も思わなかったでしょう。怒りもしなかったでしょう。だって、その通りなのですもの。小気味いいくらい。
   机に向かう正の背中から湯気が立っているようでした。湯気でなくて、陽炎かしら。
   求められること。――きっと誰でも、同じなのでしょう。与えられることよりも、求められることの方が人を捕えるのでしょう。しかも、それが、淋しくて傷ついて、死にそうなほどに淋しいと、言葉では言わなくても、でもひとすじに求めている心を見せられたら。人は簡単に捕らえられてしまうのかも知れません。ただ、人にすがりつきたいだけの淋しさは人を捕らえられません。真剣に生きようとして、求めて求めて、それでも淋しくて叫ぶのでなければ、血を噴きださせるほど、刺さりはしないのです。
   そう、あなたには、それがあったのです。わたしは、正の背中を見ながら、怖くて震えだしそうでした。

   多恵子さん? 彼女はいいお嬢さんですからね。家は大変でしたけれど、ちゃんと見て、求めてくれる人はいるのです。あなたたちが春光台に二人で行くころには、もう子どもが何人もいました。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。