あんたはわしの同労者や!-川谷威郎先生の思い出
11月25日は川谷威郎(かわたにたけお)先生の命日です。2009年80歳でした。先生は1929年高知県に生まれ、1956年同志社大学大学院神学部を卒業し、同年石橋教会に赴任。のち京都丸太町教会副牧師をしていたとき1961年秋に招聘されて旭川六条教会の牧師となります。64年7月10日『氷点』の入選発表の日の夕方三浦家で家庭集会が始まった様子が『この土の器をも』の最後に書かれていますが、このときの家庭集会でお話ししたのも川谷先生でした。74年に旭川六条教会の現会堂建設をしたのち、76年に困難な状況下にあった札幌北光教会に転任しますが、その在任期間に塩狩峠に長野政雄殉職の地記念碑(69年)を作り、東川の中国人強制連行殉難の碑(72年・『青い棘』に登場)建設に関わり、高砂台の納骨堂(76年)も実質的に作っています。札幌北光教会の後は87年から大阪の千里聖愛教会を牧会し、2006年に隠退しましたが、同教会には三浦綾子記念資料室が作られました。
先生が旭川六条教会の牧師を務めたのは1961~76年の15年で、『この土の器をも』などによれば、綾子さんは1963年『氷点』を執筆中、人間の社会はなぜこんなにも幸福になりにくいのかと考え、罪の問題につき当たりました。そのとき、彼女の思索の支えとなり、多くの示唆を与えたのが、旭川六条教会の川谷威郎牧師の説教でした。
他方、川谷先生自身もこう回想されています。
「旭川六条教会の礼拝で、三浦綾子さんは私の顔を食いつくようにして、睨みつけるようにして説教を聴いていました。その迫力はすごいものでした。こういう人が会衆席にいるとこちらも励まされます。一回一回火花が散るような真剣勝負を15年やってきました」
川谷先生も綾子さんも若かった時代でした。三浦綾子という信徒とのすさまじい真剣勝負があって、川谷先生は説教者として鍛えられ成長していったのだと思います。
綾子さんは、そんな川谷先生の説教について、十五年間、毎回常に私の心を揺り動かしつづけたと言い、また聴かなければ損だと思わせるものだったと語っています。先生の奥さま和子さんは、地味で控え目で初々しい方でしたが、先生の出張中は、入浴をせず、トイレも極力我慢していると綾子さんが書いています。それはいつかかって来るか分からない電話を受けるためでした。教会にかかってくる電話には人のいのちがかかっている場合があるという夫の考えに従う奥さまでした。おろそかにしないということを生き方としているご夫妻でした。“おざなりの言葉が文化を駄目にする”と語りもし、また実践もする先生の言葉にはいつも“何か”がありました。例えばこんなことを綾子さんは書いていますが、これも川谷先生の説教が基になっていると思われます。
川谷威郎という私の教会の牧師先生がおっしゃいましたが、良心というのはインチキだと。「私は良心的に生きています」と言っても、インチキだと。私も三浦と結婚して、つくづくと、人間の良心の性(さが)、人間の良心にはいろいろあると思うようになりました。(略)
良心的に自分は生きているといっても、良心の差はいろいろあります。ご自分の良心はどのぐらいの良心かわかりませんけれども、それより奥さんの良心のほうが上かもしれません。子どもさんがいたら、子供さんのほうが潔癖で、子供さんのほうがもっと良心的かもしれない。では、一体誰の良心に合わせて生きていくのでしょう。私たちの良心は、機嫌のいいときと悪いときで、また違います。「もうしょうがないや」なんて言っているときの良心と、「さあ、今日は一日きちんと暮らしましょう」と思っているときの良心はだいぶ違うわけです。お辞儀の仕方もだいぶ違うわけです。
そういうふうに動いている私たちの良心を頼りにして生きていくというのは、何を頼りにして生きていることになるのでしょうか。何も頼りにならない、ふにゃふにゃとしたものの上に立って生きているようなものだと思います。(『なくてならぬもの』)
人間の現実の的確な分析、普通に我々が考えている一つ下の深いところ、常識を少し覆してくるような本質のところを見る眼差しと見識がある方でした。綾子さんのエッセイなどともよく似たものがあると思います。たぶん川谷先生と光世さんは、綾子さんのエッセイのネタを提供した最大の二人かも知れないとも思えます。
宮嶋裕子さんは、三浦綾子文学館開館のときの祈祷会で川谷先生が捧げた祈りの言葉に驚嘆したとおっしゃいました。
「(神さま。あなたは、)あなたに反対する堀田綾子姉妹をお捕らえになり、その尊い御救いに入れてくださいました。あなたは早くから、この姉妹をその御手のうちに救い導き、強め、私たちが三十数年前より見守って参りました姉妹の作家としての働きに備えてくださいました」
ある人を反対しているうちから捕らえ、備えさせる神がいる。この不思議な真理を鋭くとらえて、感謝することができるのが川谷先生でした。だからでしょうか、綾子さんと同じぐらい目つきの鋭い方でもありました。
※下の写真は東川町にある中国人強制連行殉難慰霊碑の下部にある実行委員会氏名の半分。吉田貞次郎村長のお嬢さん安井弥生さんの名前もあります。
私がはじめて川谷先生にお会いしたのは、福岡女学院の学生を連れて旭川に研修旅行に行った何年目かでした。先生も大阪から沢山の人を連れてきておられ同じように文学散歩をしておられ、同じように日曜日旭川六条教会の礼拝に出席したのでした。ただし先生は礼拝説教をなさり、私はそれをお聴きするという立場でした。たぶん、先生はそのときから私を覚えてくださったのだと思います。“同じようなことしてる若いのがおるわ”と見て下さったのでしょう。
その後、個人的に川谷先生にお会いしたのは2007年7月16日、初めてアシュラムに参加しようと京都の桃山アシュラムに向かう途中でした。川谷先生は既に癌になっておられて、大阪府三島郡島本町の阪急電車の水無瀬駅前のマンションに住んでおられました。福岡女学院を辞めて数か月、桃山アシュラムに行って、神さまの声を聴かずには歩けないような気持のある時期でもあった私の話を、先生は懐深く聴いて下さり、ご自身もこれから体力が回復したら読書会に参加し協力したいと言ってくださいました。
その後、お嬢さんのおられる東京の町田に移られてからも、何度かマンションをお訪ねしました。いつも、おざなりでない、心に留る言葉を語ってくださる方でした。
「リーダーに必要なのはな、責任感、情熱、そして判断力や。そのどれ一つ欠けてもだめや」
ちょうど読書会の働きが拡大してゆく時期でした。会が組織化され形成されてゆく時期の私に必要な言葉でした。それは私にとって忘れ難い、何度も何度も事あるごとに思い返す言葉になりました。先生は本当に人を励ますということを知っておられる方でした。ちょうど私も手伝わせていただいて、中村啓子さんが朗読CD『塩狩峠』『道ありき』を出された頃でしたが、先生はびっくりするほどたくさんの枚数を買ってくださって、多くの人にプレゼントして下さいました。どこをとっても綾子さんが最も信頼する牧師だと思える方で、この世の見える立場を除けば、先生と綾子さんは本当に相棒で親友だったのだろうと思わせられました。
奥さまがご用事で出かけられて、私と二人だけになったときに、先生は今がチャンスとばかり、いたずらっ子のような表情をなさって、
「一杯やろう」
と言われました。お知り合いから贈られてきた立派な林檎ジュースが冷蔵庫にありました。言われるままに私が栓を抜き、グラス二つに注ぎました。それから秘密の悪戯をする少年たちのように、笑いながら二人で飲みました。あれは酒盛りだったのか、聖餐式だったのか。いずれにしても、忘れられない、おいしい林檎ジュースでした。
先生に最後にお会いしたのは、2009年10月23日でした。その日、先生はメモなどに使っておられる手帳を出して、
「すべての存在には価値と意味がある。けどなあ、人間だけにはそれに加えて尊厳というものがあるんや。カントがある本に書いとる」
と話して下さいました。これはカントの「道徳形而上学の基礎づけ」にある言葉で、「凡ゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は決して目的のための手段にされてはならない」とある文章です。初めてお会いしたときに先生は六条教会の礼拝説教でフランクルの『夜と霧』の話をされました。強制収容所が最も端的に示すような、人間が目的のための手段にされることの暴虐と悲惨を現代文明論的に晩年にも考えておられ、それに対する福音の基礎づけの一部としてこのカントも学んでおられたのだろうかと思います。その前にお見舞いしたときだったか、『EQ こころの知能指数』(ダニエル・ゴールマン・講談社α文庫)という本をくださったこともありました。IQが絶対価値のようになるナチス的な社会ではない方向を先生は思索なさっておられたのでしょう。カントの話をなさったあと、
「このつづきは、また今度や」
と言われて、先生は横になられました。でもたぶん、もう「今度」がないことを先生は知っておられたのかも知れません。おかげで私は、あれから「尊厳」の問題を考えつづけなければならなくなりました。最近ではこのカントに対しては、いくらかの補足的疑問を持って語りたいと思うようにもなりました。たぶんこの先も考えつづけてゆくでしょう。
いつだったか、先生はおっしゃいました。
「わしはたくさんの人のために祈ってきたが、もう時間も体力もない。それで今は14人のためだけ、祈っとるんや。あんたは、その一人や。あんたは、わしの同労者や」
この言葉は、先生が召されて10年経った今日もこの胸に響いています。先生は何を祈ってくださったのでしょうか?それをお聴きしたことはありません。でも、たぶんお訊きしても先生は教えて下さらず、そして、こう言われるのではないかと今日は思えるのです。
「ははは、それは教えん、楽しみにしてたらええ。わしはな、棺桶に片足突っ込んどるから、わしの祈りは大抵きかれるんじゃ!」
※下は春光台の北西オサラッペ川の鷹栖橋から見た鷹栖町側。六条教会時代、川谷先生は鷹栖町の中山家の家庭集会にも出かけて行きました。(「中山洋一さんのこと」『丘の上の邂逅』所収)
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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