「あなた、ご飯を食べましたか?」-弟昭夫さんと母キサさん
11月10日は、綾子さんの二番目の弟の堀田昭夫さんの命日です。1971(昭和46)年 、綾子さんが49歳、昭夫さんは45歳でした。三日前の7日の夜、旭川市内永山の見通しのよい横断歩道を歩いていて、猛スピードの車に撥ねられ、四日目に亡くなりました。
昭夫さんは、三兄の都志夫さん、すぐ下の弟鉄夫さんと共に国鉄の職員でした。綾子さんが札幌医大病院を退院して帰って来るときには、都志夫さん、鉄夫さんと一緒に札幌まで迎えに来てくれました。列車の中では寝たきりで外を見ることの出来ない綾子さんのために、今どこを走っているか、時々教えてくれました。脊椎カリエス療養中だった綾子さんがデザインを考え、友人たち(同じような病気療養中の人が多かったようです)に制作してもらったのれんを道内の温泉旅館などに卸して歩いてくれました。兄弟姉妹の中で一番優しく世話をしてくれた弟でした。
1959(昭和34)年5月24日の結婚式の夜、光世さんと綾子さんが新居として入った家は、少し前まで昭夫さんが住んでいた家でした。「手を伸ばせば天井に届きたりき」と光世さんが詠んだこの家は、昭夫さんが大家さんの家の棟続きの物置を借りて改造した住居でした。昭夫さんの家は隣にありました。つまり昭夫さんは隣に引っ越して、お姉さんに家を譲ったということになります。或いは、この家は昭夫さんが、はじめから姉夫婦の新居用にと改造して準備してあげたのかも知れません。そして、この病弱な姉を見守るように隣に住み、姉夫婦が雑貨店兼住宅の家を建てて引っ越した後もそこに住んでいました。
事故に遭ったとき昭夫さんは45歳の働き盛りで、中学生と、高校生の二人の息子さんがいました。即死ではなかったので、加害者は、綾子さんの家族や親戚と共に、昭男さんの手術後の状況を案じて、病院の椅子で夜を明かしました。そのときのことを、綾子さんはエッセイにこう書いています。
母は声をしのんで泣いていたが、みんなが食堂に朝食をとりに行くと、ふらふらと立ち上がった。そして加害者に近づいて行った。私は母が何を言いに行くのかと、母の姿をみつめていた。すると母はすぐに、私の傍に戻って来た。
「何を言いに行って来たの?」
尋ねる私に、母はひっそりと答えた。
「あなたご飯を食べましたかって、言って来たの」
私は驚いて母を見た。愛するわが子をスピード違反で撥ねた犯人に、ご飯を食べたかと、母は尋ねたのである。いや尋ねずにはいられなかったのである。
母はもう七十代の半ばを過ぎていた。愛する子を撥ねた犯人が憎くて、武者振りついたとしてもいたしかたのない年齢である。驚く私に母は言った。
「轢かれた昭男は、もちろん可哀想だよ。でもね。轢いた人も、もし昭男が死んだら、賠償金を払わなければならないでしょう。中小企業の人だというから、金繰りがそんなに楽なわけはない。過失は過失だけれど、金繰りのことを思ったりしてまんじりともしなかっただろうと、可哀想でね」
母はしみじみとそう言った。私には思いもよらぬことであった。一週間前にも、スピード違反で免停になったというその人の、不注意な運転に腹が立ってならなかった。恐らく私の兄弟親族も同じ思いであったろう。母は、そうした私たちの気持ちを知っていた。知っていたからこそ、廊下の片隅にしょんぼりと坐っている加害者に、言葉をかけずにはいられなかったのであろう。
私はこの時、母にはかなわないと思った。(略)私が今後何年生きるとしても、私は母のような気持ちで、「あなたご飯を食べましたか」
と、加害者に向かって言える人間には、なり得ないであろう。あのような愛と理性は、全く天与のものである。
(「母なるもの」『孤独のとなり』)
私たちはいろいろな理由で「ご飯食べましたか」と言えなくなっています。険しい状況や、心配ごとや、様々なことで頭や心がいっぱいになっていたり、あるいはその人がとても愛せない人であったりするためです。しかし、母キサさんは、その“犯人”の賠償金や会社の金繰りの心配のことまで考えながら、「あなた、ご飯食べましたか」と言う人でした。兄弟親族皆が腹を立てて、加害者を冷たい視線で見ていたのです。文字通り身の置き所もない状況だったでしょう。「想像力のなさ」こそ愛の欠如なのだと、綾子さん自身も書いていますが、このとき、彼をそんな風に思いやっていたのはキサさんだけだったでしょう。けれど、今日は、もしかしたらもう一人だけこの加害者のことを心配していた人がいたかも知れないと思えるのです。それは昭夫さんです。証拠などどこにもないのですが、「みんな、もうこの人をそんなに責めるなよ。この人だって大変なんだよ」と言ってたように思えてなりません。昭夫さんはそんな行き届いて優しい人だったような気がするのです。
優しかった昭夫さんと昭夫さんを産んで育てた母キサさん。この二人の姿のなかに、小林多喜二と多喜二を育てた母セキさんを見る気がします。パンを盗られたとき、盗った者について「盗んだんでないべ、なんぼか腹すかしてたんだべ」と言うセキさんと、息子をひき殺した犯人に「ご飯食べましたか」と声をかけずにいられないキサさん。この、“にもかかわらずいのちを思う”母のこころに養われた息子たちでした。
※上の写真は、左側の板壁の家が昭夫さん宅、その右側の白い新しい家の場所に三浦夫妻の新婚時代の家がありました。下は近文台の白樺の黄葉。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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