秋の春光台公園文学散歩

春光台公園は、旭川市中心部から北へ約5 kmに位置し、なだらかな丘陵地に帯状にある面積52.42ヘクタールの公園です。国道12号(旭川新道)が公園南側を通り、北海道道72号旭川幌加内線が縦断して公園を東西に分けています。園内東側の沢筋には約750mに渡ってミズバショウが自生しています。旭川市公園緑地協会が運営しています。

1912年(明治45年)にオーストリアのテオドール・エードラー・フォン・レルヒ中尉が旭川を訪れた際に、現在の春光台公園スキー場で第七師団や旭川中学(現在の旭川東高校)の生徒に「オーストリア流の単杖スキー術」の指導をしており、これを「北海道スキー発祥之地」として園内には記念碑がある。また、公園に隣接している春光台配水場(覆蓋付緩速ろ過池)は陸軍第七師団に水を供給するために作られた旭川で最初の水道インフラで、歴史的価値も高く1985年(昭和60年)に「近代水道百選」、2013年(平成25年)に「土木学会選奨土木遺産」に選定されています。

旧日本軍の演習場の一部を大蔵省(当時)から借り受けて(大部分を私有地として所得)1949年(昭和24年)に都市計画決定しましたが、しばらく未整備の状態が続きました。当初の公園名は「鷹栖公園」でした。綾子さんが前川正さんと春光台を最初に訪れたのは1949年でした。

1970年(昭和45年)から道道で分断している公園の西側部分が1,800本の植栽によって「市民の森」として造成され、1983年(昭和58年)からキャンプ場、冒険広場、宝くじ遊園などが造成されました。

1991年(平成3年)に公園の名称を「春光台公園」と改称。冒険広場(フィールドアスレチック20基)、歩くスキーコース(5 km)も作られ、2009年(平成21年)にはパークゴルフ場がオープン。園路の整備も完了し、車椅子で利用できる区間も完成しました。

園内には、蘆花寄生木ゆかりの地(徳富蘆花)碑、北海道スキー発祥之地碑、軍用水道碑、治水の碑、若山牧水歌碑、三浦綾子『道ありき』文学碑と、多くの碑があります。若山牧水は1926(大正15)年にこの地を訪れています。

春光台公園が登場する小説として、『道ありき』『積木の箱』のほかに、徳冨蘆花 『寄生木』(1909年)、太田紫織 『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』 第三巻 「第参骨 託された骨」(2013年・同作は2年後にアニメ化されたものにも出ています)があります。

『道ありき』文学碑     上は副碑(説明文)。西側の管理棟および駐車場の近くに建立されました。2014年6月28日に除幕式があり、三浦綾子読書会の全国大会も同時に開催されました。三浦光世さんが公的な場に出られた最後の時になりました。

綾子さんと前川さんが歩いたのは、前川さんのメモ帳の記述などから推測して、この道の可能性が一番大きいと思います。ここから左に登ります。

林の中の道が始まります。気持ちの良い散歩コースです。この左下の沢奥がミズバショウ群生地になります。

蘆花寄生木ゆかりの地の碑(徳富蘆花の『寄生木』舞台)の前に立つ三浦光世さんと黒田一秀さん。黒田さんは綾子さんが札幌医大病院に入院していた時の主治医で、北大医学部では前川正の同級生でした。後に旭川医科大学学長、旭川六条教会員。写真は2007年夏ごろ。

『道ありき』にも簡単な説明がありますが、徳冨蘆花(とくとみろか) は「自然と人生」「不如帰(ほととぎす)」などの作品を書いた小説家で、思想家の徳富蘇峰は実兄。『われ弱ければ』には主人公矢嶋楫子を批判する甥たちとして登場します。蘆花の作品「寄生木(やどりぎ)」は軍人・篠原良平が失恋の悲しみのうちに自殺をするという物語で、主人公のモデルとなったのが旭川の旧陸軍第七師団の見習士官小笠原善平でした。「寄生木」は小笠原善平が書生として世話になっていた恩人の乃木大将のために自身の半生の小説化を徳冨蘆花に依頼して(その後善平は自殺)出来た作品と言われています。1910(明治43)年、蘆花は旭川を訪れて春光台を歩き「春光台腸(はらわた)断ちし若人を偲びて立てば秋の風吹く」と詠み(この歌の碑は春光台公園に隣接する旭川実業高校敷地内にあります)、善平を偲んでいます。寄生木(やどりぎ)は春光台の風物の一つであり、小笠原善平は乃木将軍に身を寄せる自らを「寄生木」に重ねていたのです。このような経緯で、1958(昭和33)年、市観光課の手により「蘆花寄生木ゆかりの地」の碑が設置されました。

綾ちゃん、ここに来ると、少しは気分がいいでしょう?左の少し大きな建物が旧偕行社(陸軍将校の社交場)で、現中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館だよ。

戦争の遺品      陸軍の演習地だった春光台の尾根にはこんな墓標も残っています。旭川の第七師団は1904(明治37)年、日露戦争に出征し、旅順攻略戦奉天会戦に参加しました。また、昭和の戦争では『銃口』にあるように、満州、および南方に送られました。林の中には塹壕戦の訓練に使った跡と思われる窪地がいくつもあります。

左はかしわの森。『道ありき』に出て来るようなナラの巨木もかつてはありましたが、今はあまり残っていません。右側はスキー場。坂を登り切った白い手摺の左端辺りの平地に『道ありき』文学碑を建設したいと、当初実行委員会では考えていました。

旭川実業高校    『積木の箱』の舞台となる私立北栄中学校は架空の学校ですが、付近には旭川実業高校以外に私立の学校はないため、おそらく北栄中学校が旭川実業高校ではないことを明瞭にするために、途中で旭川実業高校名前も登場させたかと思います。

『積木の箱』は刊行から間もなく、1968年に大映によって映画化され、川上久代を若尾文子が杉浦悠二を緒形拳が演じました。テレビでも、同年毎日放送制作の『ポーラ名作劇場』枠にて小川真由美、石坂浩二主演、主題歌加藤登紀子でドラマ化され放映されました。1975年にもフジテレビの『ライオン奥様劇場』で篠ひろ子、長谷川哲夫の主演でドラマ化されていますが、このときのロケの写真は『三浦綾子文学アルバム』(主婦の友社)で見ることができます。

整肢学園     『積木の箱』に登場する同学園は、1962(昭和37)年に「北海道立旭川整肢学院」として開設されました。当時は主にポリオの児童を対象とした施設として開設されたものでしたが、現在は脳性麻痺、二分脊椎、筋ジストロフィーなど障がいが重く、また障がいが重複している子どもの比率が極めて高くなっています。このため、1982(昭和57)年には、名称を「北海道立旭川肢体不自由児総合療育センター」と改め、病院としての機能を強めて現在に至っています。

鷹栖神社      『積木の箱』の主人公中学生の佐々林一郎は家で食事したくなくて、ここでパンを食べています。鷹栖神社は、1895(明治28)年の旧鷹栖村戸長役場開庁にあたり、その庁舎内に創祀され、翌年には役場敷地内に祠が建てられたそうです。
  1898(明治31)年に近文5線6号の現在地を神社敷地として払い下げを出願。この地は近く開設される第七師団敷地に含まれていましたが、師団敷地から除かれ師団の設置と同時に社殿も建立されました。道庁より大正2年公認神社としての創立の許可が下り、札幌神社(現北海道神宮)より御分霊分祀の祭典が斎行され、その後、村社、郷社、縣社に昇格し、旧鷹栖村地域の氏神となりました。

鷹栖神社下のS字カーブの坂     北栄中学校に赴任する杉浦悠二はこの坂を登って来て、物語の最後は下ってゆきます。

お休み処      『積木の箱』の川上久代の店には「お休み処」と書かれていました。この近辺に設定されていますが、実際に2000年ごろまでは、モデルかと思われるお店がありました。この坂を登った左側が鷹栖神社という位置関係です。

『積木の箱』の和夫が溺れかけた川?   オサラッペ川の可能性もありますが、年少の和夫が遊びに行くには少し遠いよう思われます。写真は五号川の千代の橋付近。ここなら一人で来ることが出来ますし、降りて遊ぶことも難しくなさそうです。

鷹栖町側から見た春光台      長く続く丘の向こうが旭川市の春光地区。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。