あなたは、わたしの孤独を支えてくれる唯一のもの ― ゼルマのアルバム

   ゼルマ・メーアバウム=アイジンガーは1924年8月15日(あるいは2月5日)、ルーマニア王国(現在はウクライナ共和国)ブコヴィナ州の州都チェルノヴィッツで、靴屋の父マックス・メーアバウムと母フリーダの娘として生まれました。ゼルマは幼いころから文学を学び、ハイネ、リルケ、ヴェルレーヌ、タゴールなどの詩人に強い影響を受けました。戦後ドイツの代表的な詩人パウル・ツェラン(1920-1970)は同郷で親戚でもあり、ゼルマの母の実父の家でゼルマも含む親戚の人たちと一緒にユダヤ宗教曲を合唱したこともありました。
   ゼルマは1939年15歳で詩人としての執筆活動を始め、フランス語やルーマニア語、イディッシュ語や生来のドイツ語の能力も既に身に着けていました。その傍ら、シオニスト・グループに加わったりもしていましたが、時局は厳しくなり、1941年にナチス・ドイツが1940年にソビエト連邦に編入されていた彼女たちの地域へ侵攻し、41年10月、家族共々ゲットーへ送られました。ゼルマはゲットーの中でも詩を書き続けました。そして、1942年強制労働収容所への強制連行が迫ったとき、自分の詩を綴じたアルバムを、親友エルゼを介して愛する青年レイセル・フィヒマンに託しました。彼はそれを強制労働収容所で自分の持ち物と一緒に保管しました。間もなく、エルゼの家族はウクライナの片田舎にあるミハイロフスカの強制収容所に移送されますが、移送途中で三か月も野営させられ、薄いスープ以外与えられず多くの人が死んでゆきました。ゼルマはこのミハイロフスカの施設で1942年12月16日、発疹チフスにより亡くなりました。18歳、アンネ・フランクがベルゲン・ベルゼンの強制収容所で亡くなる2年余り前でした。
   それから1年半余り後の1944年8月、レイセル・フィヒマンはユダヤ人亡命者を満載したイスラエル行きのトルコ船メフクレ号に乗りますが、船はソ連の潜水艦に攻撃されて撃沈、レイセルは亡くなりました。しかし、彼はその数か月前ゼルマの親友エルゼを訪ねて、自分の道が閉ざされたときにゼルマの詩が失われることのないように、アルバムをエルゼに託していました。
  その後ゼルマの親友ルネが収容所を脱走しチェルノヴィッツでエルゼと会い、ミハイロフスカ収容所からユダヤ人少年によってルネに届けられたゼルマの手紙をエルゼに渡し、ルネはゼルマのアルバムをエルゼから受け取りました。ルネはゼルマのアルバムをリュックサックに入れて徒歩と馬車と鈍行列車の屋根にも乗ってヨーロッパを横断してパリに行き、1948年、船でイスラエルに渡ります。彼女の手荷物の中にはゼルマの詩が入っていました。翌年にはもう一人の親友エルゼもパリ経由でイスラエルに来ました。
  20年の後、1968年に東ベルリンで出版された詩集『何という言葉が寒さに向かって叫ばれたことだろう―ドイツ詩にみる第三帝国におけるユダヤ人迫害』にゼルマの詩「ポエム」が入り、それを読んだゼルマのユダヤ人女子高時代のクラス担任だったヘルシュ・ゼーガルがルネの保管するゼルマのアルバムを知り、自費出版でゼルマの詩集を印刷して友人知人に送りました。その一冊がユルゲン・ゼルケの手に渡り、1980年ゼルケによってゼルマの詩集は西ドイツで出版され、広く世に知られるようになりました。
   ゼルマが遺した詩は52篇、ルーズリーフが紐で綴じられ、表紙は花柄で飾られていました。詩集の最後の二篇を紹介します。

     * * *   (注 これが題なのか、題が決まらなかったのかは不明)

あなたのためにわたしが泣いているのがわからないの、
あなたはほんとうにそんなに遠くにいるの?
でも、あなたはやはり、わたしにとって最も美しいもの、
わたしの孤独を支えてくれる唯一のもの

                                         1941年12月23日  17歳4か月

   詩集の最後尾の詩「悲劇」には赤文字で三行の文章が添えられています。

     悲劇

最も重いことは、自分を投げあたえること、
そして人間とは余計な存在であると知ること、
自分をすっかりあたえること、そして人が煙のように
無に帰してしまうと考えることである。

     ― 終わりまで書く時間がなかった。
  申し訳ないけど、これで許して下さい。
  これが私にできる精一杯の事 ゼルマ

                                        1941年12月23日  17歳4か月

   20年ほど前、ホロコースト文学を少しずつ読み学んでいた中で出会ったゼルマの詩集。その末尾にあったこの二つの詩に、わたしは強い衝撃を受けました。絶望的な苦難、人間の実存的条件、孤独、愛と憧れ、信仰。それらの深い洞察が清冽な言葉で語られているからですが、それと同じぐらい胸を打つのは、この最後の赤い文字で書かれた三行の文章です。ここに、人生を断ち切られようとしている彼女の、そのひとすじさと、使命への激しい熱情とが迸っているからです。
   また、彼女の詩のアルバムを守り世に出していった人たちの物語もまた、不思議以上の希望を見せてくれるように思い、紹介させていただきました。ぜひ彼女の詩をお読みください。

   *参考文献    岩波ジュニア新書『ゼルマの詩集』秋山宏訳・解説  1986
   *写真は右がゼルマ、左が親友のエルゼ。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。