岡藤丑彦 ― 西村久蔵の友

 三浦綾子さんが書いた伝記小説『愛の鬼才』第十章に「岡」という人物が登場します。本名は岡藤丑彦。久蔵の小樽高商時代の友人で、久蔵の祈りと熱い友情に導かれてキリスト者になった人でしたが、恐るべき愛の鬼才たる西村久蔵をして驚愕せしめた愛と平和の信仰の人でした。戦時中の中国でのこの逸話は『愛の鬼才』にも書かれていますが、西村久蔵自身の文章で紹介してみたいと思います。感動と情熱と愛とをもって語る西村久蔵の息遣いと迫力、温かさも感じていただければ嬉しいです。
   文中の「O君」が友人岡藤です。戦後75年を迎えたこの夏、この岡藤の中に平和を作るものが何であるか、学びたいと思います。上の写真の左が岡藤、右が久蔵です。

      御言の証者           西村久蔵

   昭和十二年七月三十一目に、思いがけなく四十歳の私に召集令状が来て、八月中旬には独立大隊の先発隊の一員として北支に派遣されることになった。あわただしい動員の毎日は文字通り不眠不休であったが、私の心はそれとは反対に深く祈りの世界に沈んでいった。数ある信仰の友の一人O君は、もう十年も伊豆の久連で肺結核の身を自然療法によって回復にむかい近隣への伝道と聖書の研究に余念がなかった。私はO君と祈りたいという切なる願いにかられて、出征の途次沼津駅に出てくれと彼に電報した。しかし沼津駅には彼に代って奥さんがでて来られ、彼は折悪しく風邪高熱で会えないとのことであった。
 翌年の秋、突然O君は私の駐屯していた張家口をはるばる尋ねて来た。そして身を北京の朝陽門外の聖者と言われていた清水安三先生宅に置いた。彼の北支を訪れたのは長い長い真剣な祈りの結果、主のお答を得てのことで、その主因は「西村は軍隊に籍のあったばかりに、殺戮の戦場に立たねばならぬ。私はその罪の償いとして中華の人に奉仕せねばならぬ」という信仰からの決断であった。病後の身で妻子三人を残し、汽車賃百円だけ持っただけで主の御旨を堅く信じて戦乱の北支に来たのであった。
 私はこの信仰の友の志と友情をどんなに感謝したか、彼とともに涙して祈り、百万の味方を得た思いであった。彼は粗末な木綿の中華服を着て、占頷下の中華市民の中で暮らした。そして横暴な日本軍隊と日本人の振舞に、憤りも悲しみも顔に表すことの出来ない中華人の心に同感した。北京の停車場に良い列をつくって身体検査の済むまでは、みすみす発車してゆく列車を見送りつつ何時間も立ちん棒をしている中華大衆とともに彼は黙々として弱い身も忘れて自分の順番を待っていた。日本人は例外なく自由に乗車出来るのにもかかわらず、彼は中華人の悲しみを自分のものとして彼らにまじって立っていたのである。清水先生はO君が北京官語を一目も早く身につけるために、丁度依頼して来た京漢線の保定城外の製粉工場の日本人顧問に推薦した。この工場は王雨生という基督者の経営していたもので是非共基督者の日本人に来て欲しいと、清水先生にかねて願っていた。というのは単なる日本人顧問だと家に狼を飼うような結果になりがちだったからである。
 小樽高商出身のO君は広い室の大きい机に坐る身になり、彼の捺印なしには麦粉は一袋もこの工場から外に出ないほどの権限を持っていた。しかし中華人の事務員たちは、だれ一人も彼に近づくものはなく、一日の仕事を終えると彼は保定城内の旅宿の彼の室に帰って、聖書と祈りに淋しい心を慰められて日を過ごした。
 そのころ私は任地から総司令部に軍務があって、北京に出張したので、彼に会うのを楽しみに、便りをして宿舎に来てもらった。久し振りの彼の顔を見て私はアッと驚いた。彼の顔は右半分の額から頬にかけてドス青い長く太い生々しい打撲傷の跡で、ひどく人相も変わったほどにはれあかっていた。「どうしたんだ」とせきこんで尋ねると彼は微笑を浮べながら、
 「首が飛んでないのが不思議で、何度も痛むところをなでてみるんだが」と話出した。
 「一週間ほど前に、製粉工場から旅宿の室に帰って夕食をすまして、机に向っていると、急に外が騒々しくなった。宿の玄関の戸がガラッと音を立てると、女の悲鳴が絹をさくように聞えた。おやと思うと、僕の室に真青な顔になった心も空の若い姑娘が土足でアッとトう間に飛込んで来たのだ。瞬間僕は直感した。とっさに隣室への廊下のドアを開けて、す早く彼女を逃した。机にもどるや否や、今度は日本の上等兵が抜刀をさげて玄関から息づかいも荒く彼女を追って、室にのしあがって来た。したたかに酒を飲んでランランたる眼は狂っているように見えた。中華服の僕を中華人と見たらしい。「汝、姑娘どこに逃した。太いやつだ。かくすとブッた切るぞ。」という怒号と一緒に、靴で、すわっている僕の横腹を、いやというほどけっとばしたので、横倒しになった。起き上る目の前には白刃がチラット見えた。僕の心は切られるかも知れぬというひらめきがあるのに、「主よみ心のままに。」という祈りに占められて、不思議にも瞬間まことに平安であった。ガアと顔と首が熱くなって前にのめった。気が遠くなった。ガヤガヤと多くの人声に気がついたが身体が痛くて起き上れない。やがて誰かが手をかしてくれたのですわることが出来た。首に手をやって胴についているなと思うと意識が明瞭になって来た。日本兵はすでに憲兵に巡行されていない。
 生酔本性たがわずで、僕は幸いにも、刀の峰で打たれたから一命が助かり、見るような打撲傷ですんだ。感謝だと思って心を静めて祈った。すると僕の胸に「父よ、彼らを赦し給え、その為す所を知らさればなり」との十字架上の主の言葉がハッキリ示された。ステパノが「主よ、この罪を彼らに負わせ給うな」と呼ばわらずにはいられなかったように、僕は痛いのも忘れて立ち上がった。旅宿の戸や唐紙や敷物はメチャメチャに破損していた。僕はうろおぼえの中華語で「皆さん、彼を赦してやって下さい。酒に酔ってのことです。日本人の私か我慢しているのに免じて赦してやって下さい」と集まっている人たちにも宿の人にも詫びた。
 翌朝ヨヂユウムを塗った傷口をいたわりつつ、痛い身体を我慢して城外の工場に歩いて行くと、今日はいやに多くの人たちか僕に礼をするのが目についた。工場に着いて僕の室にはいって机に向うと、やがて中華の青年がノックして何人も話しに来た。今までにない経験である。彼らはこもごもに言った。「O大人、私た中華語を大人に教えます。大人は日本語を教えて下さい。私たちは早く大人の心を知りたい」
 西村君、それからの生活は楽しい。あの宿にいるO大人は他の日本人とは全く違うというわけで、中華語のよい先生が沢山に出来て暇な時がない。」と。
 その後O君は北京に帰って来た。彼は色々の学校から日本語の講師として礼を厚くして迎之られた。彼のために中華人の家族として室を提供され、彼の通学のために自転車を用いて下さい、と申し出る中華人も出て来た。私か彼の下宿を尋れると近所の中華の庶民、が二十何人も集まって来て基督教の家庭集会が聞かれ、私は軍服のまま丸腰で感話をし、O君は通訳してくれた。壁にかけた私の軍刀を中華の小児たちは悪戯して抜いて見たがった。どこの国の子供も天真爛漫、可愛い子ばかりであった。節はわかっても言葉の分からない讃美歌、感謝の祈、そこには世の常ならぬ平安があり主の恵みは満ちあふれていた。主に在る兄弟姉妹が、主の御言を聞いて一つの群、一つの教会を現出した。
 O君は過労から結核が再発して日本に帰国し、腎臓を半分と膀胱を摘出したが、不思議に癒され「神は日本をこらしめるために、必ず戦争は敗れる」と私にひそかに語って終戦まで各地の結核療菱所を巡り瀕死の病者に主の福音を語って慰めて歩いた。彼の身体には結核菌も禍をしなくなった。
   O君の予言の通り日本は審判された。彼は今も教育者としてまた平信徒として熱心に、主の御言を伝えている。彼の私への手紙はいつも世界の平和を祈る「祈り」に満たされている。

 (一九五二・三・一〇 泉より)  註 文中O君とあるは岡藤丑彦氏 小樽高商―大正十四年卒

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。