「見て、ねえ、見て」― アンネ・フランクと三浦綾子
アンネは、一歩も外に出られなくても、そんな不自由な生活の中で、魂だけは自由に大きく羽ばたいた。アンネが、森の話を書いた時、まだ自由だった日の森のことを、どんなにか切ない思いで思い出したことか。(略)
この童話を読まれる人は、どうか、花という言葉、空という言葉、友だちという言葉、その一つ一つに、どんな思いをこめてアンネが書いたのか、深く深く思いやって頂きたいと思う。もしかして、アンネの目には、涙がいっぱいあふれていたかも知れないのだ。
これは『アンネの童話集』(1987年・小学館)に三浦綾子さんが書いた解説の文章「自由を求めて生きた高貴な魂」(『一日の苦労は、その日だけで十分です』2018・小学館に所収)の一部です。
アンネの家族は、父母と、姉のマルゴと、アンネの四人家族でした。有名な『アンネの日記』は、1942年6月12日、13歳の誕生日に父オットーから贈られたサイン帳に書かれました。1942年7月5日、マルゴに対してユダヤ人移民センターに明日出頭するようにとの命令が来たことから、6日朝一家は準備していた隠れ家に移動しました。
『アンネの日記』は、このアムステルダムの隠れ家生活の中で書かれました。1942年7月6日から、1944年8月4日までの隠れ家生活でした。途中でファン・ペルス一家3人とフリッツ・プフェファーが加わり、隠れ家生活は8人になりました。
1944年7月15日、日記に有名な一節が書かれました。
自分でも不思議なのは、私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて、到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても、人間の本性はやっぱり善なのだと。
日記はこの後7月21日に書かれて、8月1日火曜日を最後に終わっています。隠れ家生活が終わったからです。
1944年8月4日午前10時半ごろ、プリンセンフラハト263番地の建物の前に一台の車が止まりました。カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長とオランダ人警官数人が降りて来て、「ユダヤ人はどこに隠れている?」と倉庫従業員ファン・マーレンに質問しました。
隠れ家を発見され、8人は手を挙げさせられて3階のフランク夫妻の部屋に集められました。ジルバーバウアーは貴重品を出させて押収しました。鞄を逆さまにして中身をぶちまけたときに、中からアンネの日記帳が床に落ちました。ジルバーバウアーの質問に答えなかった事務所のクーフレル、クレイマンを加えた10人が連行されました。逮捕を免れた女性従業員ミープ・ヒースらが荒らされた隠れ家を整理し、『アンネの日記』はミープによって戦後まで保管されました。
8人はゲシュタポ・SD本部で取り調べを受けた後アムステルダム内の拘置所に移され、オランダ北東のヴェステルボルグ収容所に移送、その後ポーランドのアウシュビッツ=ビルケナウ収容所に送られました。9月6日到着と同時に父・フランクとは引き離され、10月には母親とも引き離されて、姉のマルゴとアンネはベルゲン・ベルゼンの収容所に移され、そこでチフスに罹患して、死にました。マルゴは1945年2月、アンネが亡くなった日は確かには記録されていませんが1945年3月の初めだったようです。わずかに15歳でした。
『アンネの日記』は、隠れ家生活を支えたミープ・ヒースの手から、ただ一人生きのびたアンネの父・オットー・フランクの手に渡され、1947年に出版されました。
エルンスト・シュナーベル『アンネ・フランク―ある少女の足跡』によれば、強制収容所に囚われた人々は、夢遊病者のようでした。自らを保護しようとする機能が働くのか、彼らは何も見ないよう何も感じないようになっていました。けれどもアンネにはそのような保護機能が働いていませんでした。ある生存者は語りました。
「いまでもアンネがバラックの入口に立って、収容所内の通りをながめていた様子が目に浮かびます。その通りを、丸裸にされたジプシーの少女の一団が、火葬場へと追い立てられてゆくのです。それを見送って、アンネは泣きました。それからまた、ハンガリー人の子供たちが、ガス室の前で半日も雨に打たれながら、じっと部屋に送りこまれる順番を待っている、そのそばをわたしたちが通り過ぎたときも、やはりアンネは泣きました。そしてわたしを肘でつついて、言いました。『見て、ねえ、見て、あの子たちの目』」
最初に上げた文章で、綾子さんは、アンネの自由に羽ばたく魂と、涙があふれていたかも知れない目を語っていました。
見ることは、時にとても苦しいことです。もしかしたら『アンネの日記』を意識していたかも知れない『雪のアルバム』のなかで、主人公浜野清美が「私は『三分の黙想』という本に、〈不幸な人の不幸に気を配ることは、実に稀な、困難な能力である〉というシモーヌ・ヴェイユという人の言葉を見ました」と書いています。ヴェイユは「自分が不幸なときに、じっと不幸を見つめられる力をもつには、超自然的なパンが必要である」(「真空と補償作用」『重力と恩寵』所収)とも言っています。
不幸ないのちを見ることは、そのいのちに見られることでもあります。そのいのちと二人きりにされて、対面させられることです。だから、見られることは問われることでもあります。それは苦しみを伴う受難なのです。だからそれを見ることができる人は少ないのです。でも、それを眼を開いて見ることのできる心、そこに希望があり、新しい時代が開ける窓があると、アンネもまた、浜野清美にそれを促した三浦綾子も、知っていたのだろうと思います。
「見て、ねえ、見て、あの子たちの目」
※写真は一番上が広島県福山市にあるホロコースト記念館のアンネ・フランク像。二番目は同館のアンネのバラ。下は三浦綾子さんの解説も収録されている『アンネの童話集』。
参考文献
『アンネの童話集』(1987年・小学館)
『アンネの日記』(1986年版・文春文庫)
『雪のアルバム』三浦綾子・小学館文庫 ほか
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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