燃える紅葉の瀬戸牛、滝上
2021年10月13日、久しぶりに撮影を兼ねた取材研究旅行に行って来ました。
三浦綾子さんが新婚時代を語った自伝小説『この土の器をも』二十章と、光世さんの回想記『綾子へ』(「旅行の思い出」)によれば、1960(昭和35)年10月14日、三浦夫妻は、光世さんのふるさと、北見滝上(たきのうえ)の滝西地区に住む伯父さんの家(光世さんの姉・富美子さんの家)を訪ねました。光世さんは従妹の結婚式のために、綾子さんを伴って出かけたのでした。朝五時にタクシーを呼び、旭川駅から列車で名寄に行き、名寄から名寄本線に乗り換えて、瀬戸牛(せとうし)へ。そこで降りてバスに乗り換え、瀬戸牛峠を越えて滝上を訪ねました。名寄本線は1989(平成元)年4月廃止されました。1921(大正10)年から1932(昭和7)年に石北線が出来るまでは、北見地方と道央を結ぶ最短路線として活況を呈しました。※下は名寄本線の名寄-瀬戸牛の途中にある下川駅跡地の旧車両。
燃えるような赤、目のくらむような金色、北海道の紅葉はまことに鮮明と言おうか、美麗と言おうか、あの時ほど美しい紅葉はなかったような気がする。(『この土の器をも』)
瀬戸牛駅は三浦夫妻が通った半年後の1961年3月に「西興部(にしおこっぺ)駅」に改称されました。西興部駅(瀬戸牛駅)の駅舎跡地には現在は歯科医院が建っています。この町は雪の季節も明るく映えるオレンジ色をイメージカラーとしています。※手前左の軒が歯科医院、向こうがホテル森夢(RIMU)。
西興部は林業の村で、この駅一帯はその集積と荷出しの中心地でした。林業の中心にいた人物の私庭だった興楽園は、総オンコ造りの茶室のある、当時は三人の専属園丁がいたという見事な日本庭園で、今は村が管理しています。
庭園や郷土館などを案内して下さったのは、この町で獣医として3000頭の牛を診療する中山豊さん。名寄三浦綾子読書会のリーダーで、オンライン講演会、オンライン読書会の常連メンバーです。実はこの西興部は早い時期に村の全戸にインターネットを敷いたことで有名な村です。※左側が中山さん、右は運転手の旭川読書会の近藤弘子さん、シャッターを押してくれた工藤和恵さんも旭川読書会のメンバーで、この日は主にナビゲーターを担当くださいました。みんな『天の梯子』zoom読書会のメンバーで月一回画面では会っていますが、実際に会うのは近藤さんと中山さんは初めてでした。後ろが博物館入口。
私たちのバスは、瀬戸牛から幾曲りかの峠道を越えて行った。わたしはただ、「きれいね、きれいね」と、ただただ連発するばかりで、言葉もなかったことを覚えている。(『この土の器をも』)※瀬戸牛峠に登る途中から見下ろした西興部の中心部。美しい村です。
北見滝ノ上の山も美しかった。こんな美しい山の中に、十年余も三浦は過して来たのかと、わたしは深い感動をもって、山々の紅葉を眺めたのだった。(『この土の器をも』)
途中、草原の上で休んでいたら、訪問者がありました。熊でなくて良かった。
北見滝ノ上駅は1985年の渚滑線廃線後も遺されていて、小さな博物館になっています。駅を出ると正面に見える山が芝桜で有名な滝上公園。駅から徒歩10分です。芝桜を植えることを提言したのは光世さんの兄・健悦さんとか。
滝上の山奥に辿り着いたのは、夏も半ば過ぎではなかったろうか。滝上駅から四里もの道のりを、一同は迎えに出た馬車に乗せられて、これから住むべき家に向かって行ったにちがいない。(三浦光世『青春の傷痕』)
光世さんは1924(大正13)年、東京の目黒で生まれ、三歳のときに、滝上の開拓地に戻る両親、兄健悦さん、妹誠子さんと共にこの地に来ました。父・貞治さんが東京で結核になったためでした。貞治さんは、この地で死のうと思ったのでした。
一家は、父方の祖父・三浦小三郎、伯父夫婦とその養子となっていた姉・富美子さんの五人の家に転がり込みました。それから、そのすぐ隣にあった父がかつて(東京に出る前に)住んでいた家に移ります。数か月の自宅療養ののち、11月28日、三十二歳で父・貞治さんは亡くなりました。※写真は富美子さんのお子さんたちが暫く前まで住んでいた家。貞治さんの家もこの辺りにあったと思われます。
この家の敷地内に光世さんの兄健悦さんの碑(揮毫は光世さん)と光世さんの碑が建っています。木製で、アイヌのお墓に似たたたずまいです。ここで、こうして兄弟が共に集い、共に朽ちてゆく恵みというものもあるのだと、思わされました。渚滑川畔にあるという父・貞治さんのお墓は探しに行けませんでした。
石四五個置きしのみなる父の墓渓の響きの絶えぬ崖の辺 (光世さんの短歌)
父・貞治さんの死の一年後、母・シゲヨさんが髪結い修行に行くことになり、光世さんは三浦家から七、八百メートルほど滝上寄りのところに住んでいた母方の祖父・宍戸吉太郎さんに預けられました。宍戸家では林檎園を持ち、薄荷を栽培していました。林檎園の草取りは光世さんの仕事でした。この祖父は福島で洗礼を受けたクリスチャンでした。
吾を引き取り育てし貧しき農の家聖書ありき聖画ありき聖歌がありき (光世さんの短歌)
※下の写真の草原の手前と向こうの端(渚滑川)の中間辺りに、宍戸家はあったと推定されます。
近隣の傍士(ほうじ)家では、馬鈴薯を作っていて、三百メートル程離れている隣の山下家は工場を持っていて、馬鈴薯から澱粉を作っていました。※大きな建物が幾つもある山下家も今は廃屋になっていました。
1931(昭和6)年、光世さんは滝西小学校に入学しますが、五キロを一人で通うのは難しかったので、朝の登校時は祝子叔母が毎日背負って途中まで送ってくれました。滝西小学校は2014年に廃校になり、現在は公民館として使われています。この光世さんを育てた土地を訪ね、光世さんの幼少期に思いをはせた綾子さんは、後に『泥流地帯』を書くときに、耕作の姿に光世さんを重ねながら、いとおしみ描いたのでした。
このブログを書いた人
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1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。
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