大鵬の少年時代と『天北原野』― モデル仮説

   4月25日、北海道新聞朝刊は「『大鵬上陸の地』稚内に記念碑 樺太引き揚げ、途中で下船」という見出しで、稚内市内の元水産加工会社社長の仲村房次郎さん(82)=横浜市在住=が、稚内港に同記念碑を建立すると報じました。横綱大鵬と20年以上の親交があった仲村さんは、少年時代の大鵬(故納谷幸喜さん)が終戦直後、樺太(サハリン)からの引き揚げ時に稚内に上陸したことで命びろいしたことを知り、自費で記念碑を建てることにしたとのことです。
   大鵬(納谷幸喜)は1940年(昭和15年)5月29日、樺太の敷香(しすか・現ポロナイスク=ロシア・サハリン州)で生まれました。父は革命を逃れて南樺太に亡命して来たウクライナ人マルキャン・ボリシコ、母は日本人納谷キヨ。しかし、終戦期の混乱で父と生き別れになり、45年8月、母と二人で稚内に引き揚げて来ます。5歳でした。このとき二人が乗った船が小笠原丸。大泊(現コルサコフ)で小樽に向かう同船に乗りましたが、途中、母が船酔いのため体調不良となり、稚内港で下船しました。ところがその後、船は増毛沖でソ連軍の潜水艦に撃沈されたのです。泰東丸、第二新興丸と共に「三船遭難事件」として知られる終戦直後の悲劇でした。もし母が体調不良にならなかったら、横綱大鵬は誕生しなかったことでしょう。その後母が再婚し、幸喜少年は義父の転勤で道内を転々としますが、弟子屈高校定時制一年の時に見出だされて1956年二所ノ関部屋に入門、5年後の1961年には、当時史上最年少で横綱となりました。
   三浦綾子の長篇小説『天北原野』では、主人公孝介の妻あき子が、革命を逃れて南樺太に亡命して来たロシア人シーモノフ家の青年イワンと不倫関係に陥り、青い目の京二という混血児を産むことになりますが、京二が10歳なった1945年8月9日、ソ連軍が南樺太に越境侵攻して来ます。一族は大泊港から引き揚げ船第二新興丸で小樽へ逃げることになっていましたが、京二が腹痛を訴えたため、京二とヒロインの貴乃(京二にとっては伯母)だけ、みんなが乗った同船に乗れなくなります。ところが、疎開者約3400名を乗せたこの第二新興丸は留萌沖でソ連の潜水艦により魚雷攻撃を受けて交戦し、船体が大破します。機関に異常がなかったため沈没は免れ、最寄りの留萌港に入港しましたが、船内で確認された死者229名、行方不明を含めると400名近くが犠牲となりました。『天北原野』では、貴乃の子どもたちや孝介の母が犠牲になっています。もし、京二が腹痛を起こさなかったら、二人も死んでいたかも知れません。貴乃と京二は別の船で稚内に渡り、生き残ります。
   物的な証拠が発見できない限り仮説に過ぎませんが、少年時代の大鵬(納谷幸喜)がこの京二のモデルであった可能性はかなりあると思います。大鵬が生まれた敷香(三浦綾子の職業軍人だった次兄が一時住んでいた所でもあります)も、『天北原野』の主要な舞台の一つになっています。孝介や貴乃たちが旅行中に食事していた敷香駅前のレストランに、イワンが偶然入って来て、京二とはじめて会う場面が描かれています。すでに数年前孝介に「もう妻に会わないでくれ」と言われイワンはあき子と別れたため、子どもが生まれたことも知らなかったのですが、それでもイワンは気づいて「ボクノチイサイトキニ、ソックリデス」と孝介に言うのでした。
   大鵬の名前「幸喜」は彼が生まれた1940年の「皇紀2600年」に因んでつけられたのですが、実は彼はもう一つウクライナ名も持っていました。父親がつけたのでしょう、その名は「イワン」でした。
   大鵬と三浦綾子。二人は北海道が産んだ昭和のビッグスターでした。堺屋太一が言った「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が流行語になったのが1961年、『氷点』で三浦綾子がデビューしたのが1964年。テレビが日本の大衆文化の中心となって、東京オリンピックや様々なスポーツを中継し、テレビドラマ『氷点』を放映し、日本中が熱狂する時代でした。
   『氷点』から十年後の1974年に連載が始まる『天北原野』を書くにあたって、三浦綾子は樺太関係の多くの資料を収集し、樺太で生活して引き揚げて来た人々の体験談を読み、聴きました。その中には大鵬のものもあったのかも知れません。或いは十数年前、大鵬が大関、横綱と昇進していったころ、北海道中が沸き立っていた中で、かの幸喜少年の生い立ちや引き揚げ時の数奇な物語を知っていたのかも知れません。いずれにせよ、海山の資源豊かな樺太をめぐって奪い合う戦争をしていた日本とソ連という二つの国と民を象徴的に繋ぐ平和の子どもとして描かれる京二(二つの国、二つの都を意味している名前です)の造形が大鵬の少年時代をモデルとしているのであれば、それはまた同時に、三浦綾子が同郷の横綱大鵬のために、日本とソ連の間の平和の器としても用いられますようにと祈る、祈りでもあったのではないかと思うのです。
   大鵬の上陸記念の碑は、稚内港に5月末、完成除幕予定とのことです。

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。