エデンの園のリンゴ作り-木村秋則の仕事

   今日11月8日は、木村秋則(きむらあきのり)さんの誕生日。木村さんは、世界で初めて無農薬・無施肥のリンゴの栽培に成功した青森県の農園主で、株式会社木村興農社代表取締役です。

   無農薬リンゴに取り組む

   木村秋則さんは、1949年に、青森県岩木町(現弘前市)の三上家の次男として生まれました。青森県立弘前実業高等学校商業科を卒業して上京し、トキコ(現日立オートモティブシステムズ)の原価管理課で働きました。1971年に帰郷して、リンゴ農家の木村家の養子になって美千子さんと結婚。しかし、リンゴ栽培のために大量に使用する農薬の害で美千子さんが苦しむのを見て、農薬の問題を痛感します。たまたま手にした福岡正信の著作『自然農法』を参考にして無農薬のリンゴ栽培を試みようと思い、農薬をまく回数を、年13回を5回、3回、1回と減らしてみたところ、収穫量は落ちましたが、農薬の経費も浮いたので、収益は悪くありませんでした。それで木村さんは、1978年から本格的にリンゴ無農薬栽培に挑戦しました。ところが、日本の温帯の湿潤な気候でリンゴを無農薬で育てることは困難を極めます。5月に咲くはずの花が9月に咲き、果実は結実することなく小梅程度の大きさにしかなりません。さらに害虫を手作業で駆除するなどの毎日の手入れも相当な労力でした。さまざまな勉強をし、考えられる限りの手段を試してみますが、どれだけ苦労を重ねても実がなることはなく、畑は枯木の山のようになってゆきます。自給のために育てた他の作物での無農薬・無施肥栽培で良好な成果はありましたが、10年近くにわたって収入のない状態が続き、木村家は極貧生活を強いられることになってゆきました。

   死のうと思った岩木山で

   1985年、木村秋則さんは行き詰まっていました。もうやれることは全部やった。無理なのだと思いました。無農薬でリンゴを栽培する。それが自分の天命なのだ、と思っていた。ここで自分が諦めたら、もう誰もそれをやろうとはしないだろう。自分が諦めるということは、人類が諦めるということなのだと思っていました。その夢を実現するためだけに生きてきたのです。木村さんの夢は木村さんそのものでした。けれど、その夢は潰えたのです。夏のある日の夜、木村さんは、死んでお詫びするしかないと決心して、岩木山に登りました。誰にも見つからない山の中で首を吊ろうと思ったのです。
   満月の夜でした。眼下に弘前の夜景が広がっていました。きれいな夜でした。月や夜景だけでなく、夏の夜空も暗い山の道も、足元で鳴く虫の声も、何もかもが美しく感じられました。世界は自分が思っていたよりも、ずっと美しい場所だったと気づきました。ちょうど良い木がありました。木村さんはロープを出して枝に投げました。ところがロープが指の間をするりと抜けて、あらぬ方向に飛んでいってしまいました。ロープを拾いに、斜面を降りていったとき、そこで木村さんは、目を疑う光景を見ました。月の光の下に、輝くリンゴの木があったのです。思わず見とれてしまうほどに美しいリンゴの木でした。のびのびと枝を伸ばし、すべての枝にみっしりと葉を繁らせています。誰が農薬をかけているのだろうと、木村さんはすぐに思いました。そして脳天を稲妻に貫かれたような気がしました。そんなわけがない、一滴の農薬もかかっていないはずだ。近づいて見ると、それはドングリの木でした。山中の平らな場所にドングリの木が何本も生えているのがリンゴ畑に見えたのでした。それでも、木村さんの心臓の高鳴りは止まりませんでした。森の木々は、農薬など必要としないのだ。山に虫がいないわけではありません。周囲には沢山の小さな虫の気配がありました。畑の虫もカビ菌も、全部山から来るのを知っていました。

   見出だされた自然

   木村さんは思いました。自然の中に孤立して生きている命はないのだ。結局自分がやっていたのは、農薬の代わりに虫や病気を殺してくれる物質を探すことだけだったのと気づきました。人間は自分一人で生きていると思っている。自分が栽培している作物も同じだと思い込んでいる。農薬を使うことの一番の問題はそこにある。農薬を使うということはリンゴの木を周囲の自然から切り離して育てるということなのだ。堆肥を施し、雑草を刈って、何のことはない、リンゴの木を周囲の自然から切り離していたのだ。農薬を使わなくても使っていたのと同じだったと、はっきりと分かりました。病気や虫のせいでリンゴの木が弱っているのだと思っていたけれど、そうではない。病気や虫は、むしろ結果なのだ。自然の木は自分で自分の身を守っている。リンゴの木は自然から切り離されてきたために、自然の強さを失っているのだ。そう気づいたのです。
   山の土地は雑草が生え放題で、地面は足が沈むくらいふかふかでした。やわらかな土、ツンと鼻を刺激する山の土の匂いがありました。山の土は深く掘っても暖かいのに、畑の土は十センチ掘ると極端に温度が低くなることにも気づいてゆきました。雑草が土を耕してくれていたのだ。そこで、無農薬無肥料栽培を成功させるためのヒントが土にあることを、木村さんはつかみました。
   最終的に木村さんを助けたのは、大豆の根粒菌の作用での土作りでした。下草刈りをやめ、沢山の大豆を育てた木村さんのリンゴ畑の木は年々状態が上向いていきました。1986年にはリンゴの花が咲き、実も通常通りつくに至りました。木村さんの畑には、沢山の雑草と沢山の虫と沢山のそれより大きな鳥や動物も住むようになりました。見えないけれども数え切れない種類の菌もいます。リンゴの木はその中で自然な健康さで他の命と共に生きて実を結んでいます。人間だけと共に生きて実を結ばせられる孤独な木ではなくなったのです。

   木村秋則の仕事の意味

   こうして確立された無農薬・無施肥でのリンゴの栽培方法は、従来の農家から不可能とされてきたことであり、弘前大学農学生命科学部の杉山修一先生は「恐らく世界で初めてではないか」と評しています。木村さんを紹介した初期の本の表紙にも「絶対不可能を覆した農家」と書かれていますが、木村さんの仕事は農業の分野での驚くべき業績とか、安心安全な食べ物の生産技術とか、苦労と偉大な成功の物語とか、といったことでは尽くせないものを含んでいると、私は思っています。
  木村秋則さんのしたことは、人類がおこなってきた農業そのものへの問いであり革新でした。
   無農薬で作る、自然状態で作る、その植物が持っている本来の力を引き出す、というあたりまでは、多くの人が考えたのです。農業従事者は、その作物のことを懸命に考えます。しかしその作物以外の命のことは、その作物にとっての損得関係の範囲内でしか基本的に考えなかったのです。害虫と益虫がいて、害虫とは作物を食う虫で、益虫とは害虫を殺してくれる存在ということなのです。徹底的に自己中心な見方でした。
   本来あるべき生態系全体の回復があって、本来いるべき全ての生き物が生き生きと生きているその場所で、その作物も本来あるべきあり方で生きるようにする。それはアダムとエバがエデンの園を出て来て以来の人類の農業からの逆行です。農業というものは、多かれ少なかれ、人工的な砂漠を作ってそこに自分の必要な植物だけを生育させ、収穫することであり、その他の植物や昆虫、鳥の類などは追い払うか、皆殺しにするべきものでした。人類の農業においては、いつも、育てられる命よりも殺される命の方が圧倒的に多かったのでした。
   全部が共に生きる場所を作る。全部が生きることで、人が欲しいと願う植物も健全に生きて実を結ぶ、それが自然で当然なことであることに気づき、そこに戻ろうとしたのです。それは人間と他の命との和解、共存であり、命同士の和解と共存であり、人間はそれを十全な状態であるように見守り管理する役割を持つだけなのです。それは人間が、エデンの園の管理者に戻るということを意味しています。
   農業は人口を爆発させ、飢餓を作り、自然を破壊し、権力者と奴隷を作り、大きな戦争を可能とし、人間の多くの病気を作りました。稲作が本格的に始まる弥生時代より前には、この国に飢え死にする人はいませんでした。稲が作られ、カロリー生産量が増大して人口が爆発し、しかしそうなると単一作物に圧倒的な比重があるために、しばしば凶作が来て飢饉が起きました。それは時代が下がって人口が増えるほどひどいものになりました。天明の飢饉、天保の飢饉、或いは明治、昭和になってからも、大きな飢饉は起きました。農業は人類を飢餓から救うものでなく、人類を餓死させるものでした。何という皮肉でしょう。『サピエンス全史』でユヴァル・ノア・ハラリはこれを史上最大のペテンだったとも言っています。そして、農業によって食べ物の種類が圧倒的に減ってゆくことで、人類は自然界の他の命についての関心を失うと共に多くの知識を失い、食べ物の獲得や調理にかける時間が減少して、他のことに時間を使うようになる一方で、それまでなかった病を発症させるようになったのです。そして農業によって、人間が食べる食糧は次第に野生の命のないものになっていきました。キノコや山菜、山ぶどうなど、本当にわずかのものを除いて、人間が森や林から直接に食料を得ることは非常に少なくなってゆきました。勿論、野生種のリンゴなどは存在すら忘れられて、誰も採る人はいません。人類の農業が辿ってきた、自然の命から切り離されてゆく道を最も先鋭に展開したのが、多国籍バイオ企業モンサントだったと言ってよいでしょう。サッカリン、枯れ葉剤、遺伝子組み換え作物を作った会社です。
   木村さんのリンゴは、彼の畑という自然の中で結実したリンゴです。石油で作られた人工物ではありません。言わばエデンの園に移し戻し植えられたリンゴの木に実ったものです。だからそれは言わば採集農業(常識的には語義そのものに矛盾があるとしても)なのです。その実は小さくて平凡な見掛けだけど、食べると、これがリンゴなんだと覚醒させる味だそうです。そして木村さんのリンゴは腐りません。放置しておくと、腐らないで、そのまま甘くて美味しい干しりんごになってゆくのです。

   対話すること

   木村秋則さんは、リンゴの木に語りかけながらこの園を作っていきました。木村さんが苦悩していたとき、リンゴの木も瀕死の状態で頑張っていました。木村さんは木に優しく語りかけ、励ましました。語りかけられたリンゴの木は生き延び、語りかけられなかった木は枯れてゆきました。
   木村さんは虫を注視し、昆虫学者のように彼らを熟知するようになってゆきました。木村さんは彼らにも語りかけました。聴く耳と語りかける心さえあれば、交流はでき、不可能であったはずのことも起きる基盤になるようです。
   木村さんは、キュウリの蔓は人を慕うように、指に巻きついてくるのだと言います。良い人には巻きつきますが、そうでない人には巻きつかないのだとか。ある大きな宗教の指導者が信者を連れて木村さんを訪ねたとき、信徒たちの指には巻きついたキュウリの蔓が、指導者には巻きつかなかったそうです。

   回復できるという希望

   農薬をやめた畑のキャベツは、しばしば沢山の虫に食い荒らされて網のようになりますが、それを、無農薬栽培の不可能性と見るような短絡的思考を人はしがちです。でも、実はそれは農薬や化学肥料漬けの土地の毒をキャベツと青虫たちが浄化していってくれている過程の一つの段階なのです。土地は健全化され、作物は健全化してゆく。それも自然の力でなされてゆくのです。人間が妨害しない限り、自然は自己治癒力を持っているのです。
   木村さんは、新しく自然に近い原種のリンゴの苗木を手に入れて植え替えたのではありませんでした。長年かけて品種改良されて来た言わば人工的な品種の木でも、自然の力を持つようになれるということを証明したのです。ここには希望があります。人にとっても、個々の作物にとっても。エデンの園は生まれ変わらなければ決して入れない場所ではないのです。

   それは山で起きた

   なぜなのでしょう?覚醒は山で起きるのです。旭川市にある斉藤牧場の斉藤晶さんも、開拓に行き詰まり、どうにも道が見えなくなったとき、山に登りました。そして、山で自然の力を発見し、できるだけ自然状態で牛を飼う山地酪農牧場を始めました(また今度、別立てで紹介したいと思います)。勿論、人間の身近な世界で、自然の力に出会える場所が山か海ぐらいしかなくなっているからでしょう。しかし、それ以上のものが山にはあるのかも知れません。人はどうして行き詰まると山に登るのか?眺望展望が見通しを与えてくれそうな気がするゆえの、無意識的な求めに過ぎないのか?あるいは、山岳宗教にせよイエスの変貌にせよ、山にこそ覚醒と変化の場所が開かれるからなのか?
   或いは、山の上でなく森の中で、それは起きると捉えるべきなのかも知れません。人類が捨てて来た場所、エデンの園の物語にせよギルガメッシュの物語にせよ、森林を破壊して出て来たところから、人類の文明化が始まったゆえの、後ろめたさと郷愁と、無意識的になされる原点への回帰でもあるのでしょうか?今回のコロナが森を破壊されて追い出されたところから始まっていることと、それは完全に通脈しているのです。

※参考:Wikipedia、『奇跡のリンゴ』石井拓治(幻冬舎・2008年)ほか

このブログを書いた人

森下 辰衛
森下 辰衛三浦綾子読書会代表/三浦綾子記念文学館特別研究員
 1962年岡山県生まれ。1992年から2006年3月まで福岡女学院短大および大学で日本の近代文学やキリスト教文学などを講義。2001年より九州各地で三浦綾子読書会を主宰、2011年秋より同代表。
 2006年、家族とともに『氷点』の舞台旭川市神楽に移住し、三浦綾子文学館特別研究員となる。2007年、教授の椅子を捨て大学を退職して以来、研究と共に日本中を駆け回りながら三浦綾子の心を伝える講演、読書会活動を行なっている。
 著書に『「氷点」解凍』(小学館)、『塩狩峠』の続編小説『雪柳』(私家版)、編著監修に『三浦綾子366のことば』『水野源三精選詩集』(いずれも日本基督教団出版局)がある。NHKラジオ深夜便明日への言葉、テレビライフラインなどに出演。